ソ連時代のエストニアにおける人間中心主義的な写真の可能性について

トーマス・ヤールベルト

映像作家、映像人類学者、Juhan Kuus Documentary Photo Centre共同設立者(エストニア)

「妻は夫が写真家であろうと酒飲みであろうと気にしない。どちらの場合も家計は非常に厳しいからだ」(1)

この冒頭文は、ソ連時代のエストニアでヒューマニスト:人間中心主義的な写真、つまり【ひとのための写真】を追求することの課題と現実を風刺的なユーモアで物語ると共に、当時の写真というものへの過小評価を浮き彫りにしています。第二次世界大戦前は西欧諸国、またエストニアにおいても写真は立派な芸術形態と見なされていましたが、戦争とそれに続くソ連の占領、さらにはスターリン体制によって、エストニア写真の発展には約20年間(1940年-1960年頃)の空白期間が生じました。この時期、写真は主に社会主義報道機関のカメラマンらによるプロパガンダの道具として使われるものでした。個人がカメラを所有するということは、体制にとって危険な存在とみなされ、公共の場では嫌われ、疑惑の目で扱われることを意味しました。さらに、それまでいた写真家たちが西側か東側に強制移住させられたことで、この空白期は一層深刻化しました。

スターリン死後の体制の軟化にもかかわらず、結果として生じた空白期とそれに伴う連続性の断絶により、写真の芸術的地位は回復することはありませんでした。写真は独立した芸術とはみなされず、どの大学でも教えられていなかったのです。1970年代に芸術家らの圧力によって国立美術学校の絵画学科で写真を学べるようになりましたが、大局的にみると状況は変わっていませんでした。写真はせいぜい職業訓練と見なされており、1969年よりタリン第二技術学校で写真が教えられています。(2)

そのため、エストニアにおける写真発展の最も大きな原動力が、1960年代に始まった数多くのフォトクラブの創設であったことは驚くにはあたりません。ある時点では、全国で10以上のフォトクラブが設立されていました。アーティスト・ユニオンのような写真家のためのプロフェッショナルなクリエイティブ・ユニオンの設立を求める声もマスコミで繰り返し取り上げられたにもかかわらず、ソビエト時代が終わるまでそれが実現することはなかったのです。そのため、写真家たちはフォトクラブ (3)という形で自らを組織化する必要がありました。フォトクラブはその性質上、アマチュア、報道関係者、アーティストらを包摂する民主的な組織でした。エリート主義とは無縁のこの環境は、素朴さ、人間性、感情的な深みを重視し、普通の人々の物語や経験を伝えようとする「ひとのための写真」にとって好ましい土壌を作り出したとも考えられます。残念ながら(そしてもちろん)、当局による検閲のため、鑑賞者が本物の人間描写を目にすることはほとんどありませんでした。まれに成功するとすれば、それは主に、芸術的な自己表現というベールで写真家がそれを覆い隠したか、銀塩プリント層の間にもっとあいまいなメッセージとしてそれを隠す巧みさによるものでした。

時が過ぎ、フォトクラブに対抗する形でフォトグループが登場するようになりました。同じ世界観をもち、野心的であり、芸術的志向も近い狭いサークルが集まったものです。エストニアにおいて、最も有名で影響力のあったグループがSTODOMとBEGでした。本展においても、STODOMのペーター・トーミングとカリル・スール、BEGのエネ・ケルマが含まれています。STODOMは1964年にカリル・スールの自宅で集まった写真家たちによって創設されました。それはまた、写真芸術に焦点を当てることを目的とした、ソビエト連邦初の、独立した創作団体でもありました。

STODOMの代表的な思想家のひとりはペーター・トーミング(1939-1997)です。彼は何千枚もの写真を撮影するだけでなく、様々な機関に働きかけ、芸術分野において写真の正当な地位を獲得しようと数多くの論文や訴えを発表しました。本展では、彼の女性の身体と環境との関係を探求する作品の中から、人工空間(採石場)と自然空間(海辺や森の近くの草原)の両方にモデルを配した作品を選びました。写真芸術的に見事なこれらの作品はヌードに分類されますが、大胆でユーモラス、驚きと哀愁に満ちたトーミングらしさをみることができます。


カリユ・スール(1928-2013)は、創造性に富み、常にさまざまなジャンルをスムーズに行き来していました。本展では彼が撮影した普通の人々や日常生活の瞬間の中から、高齢者を写したシリーズを中心に作品を選びました。作品は素朴で魅力的ですが、それぞれが物語を語り、鑑賞者に想像の余地を残します。2つ目のコレクションは、報道カメラマン時代にバルトの道に参加した人々を撮影したシリーズです。


1975年にスタートしたフォトグループBEGもまた、エストニアの写真界に新風を吹き込もうとしていました。その創設者の一人であり、最も著名な女性代表の一人がエネ・ケルマ(1948年生まれ)です。本展では、彼女の最も重要な2つのシリーズから、いずれも子どもに関する作品を選んでいます。

エネ・カルマは農村部の人々とその生活を写し出す写真家として知られており、本展では『Where Grandma Was Born(おばあちゃんが生まれたところ)』と題したシリーズも展示されます。この作品では、晴れた夏に古い農場でポーズをとる作者の近親者の子どもたちが写し出されています。無邪気な子どもたちは、時を経てすり減った農場に希望の光を灯す存在であり、あるいは田舎での生活を続けることが可能であることの証明として機能しています。もしあなたが、この散文的なシリーズをソ連時代の環境の中で鑑賞し、多くの農場がシベリア強制移住の後に空家になり廃れていったことを知ったならば、この写真に宿る無邪気な物語には、より深い意味が込められていることがわかるでしょう。厳しい検閲下においても、繊細な芸術的手法を用いることで、彼らに気付かれることなくデリケートな問題を提起することが可能であったという好例と言えるかもしれません。


カリル・スールにも師事したアルノ・サール(1953-2022)は、エストニア最大のフォトクラブであるタリン・フォトクラブに所属していましたが、1982年にクラブから追放されました。当時ソ連で禁止されていたアンサンブルのソリストであり、エストニアの伝説的ミュージシャン、俳優のペーター・ヴォルゴンスキのポートレートを写真展に出品したためです。本展でもソ連時代のエストニアで禁止されていたパンク・ムーブメントを写し出したサールの代表作から、ポートレート6点を展示しています。サールは直接的な弾圧の脅威をものともせず、パンクをこのような体系的な方法で撮影し、ソ連占領末期においても社会に勇敢な一面があると示した、数少ない写真家の一人でした。


ペーター・ランゴヴィッツ(1948年生まれ)もまた、タリン・フォトクラブに所属していました。写真展に参加するなど活発なメンバーでしたが、彼は1970年代のフォトクラブでは一般的だった自然や女性の身体、特殊技法の実験などには興味がなく、むしろ人を取り巻く都市空間とその変化、そしてその中における人間のポジションというものに好奇心を持っていました。本展では彼の代表作の一つ『Morning at the New Neighbourhood(新しい住宅街の朝)』(1982-1984年)から抜粋して展示しています。このシリーズは上記の関心から直接着想を得たものです。撮影場所は写真家自身も住んでいた、ユニークな環状の新興住宅地・オイスメーです。ランゴヴィッツは「私が住んでいた新しい居住地での美しい朝が、この時代の特徴である、霧に包まれ、目覚めたばかりの近隣を撮影するという幸運な機会を与えてくれ、写真展の構成を助けてくれたのです」と述べています。(4)


ティート・ヴェルマーエ(1950年生)はフォトクラブには所属していませんでしたが、1987年にエストニアで設立されたフォト・アーティスト協会の創立メンバーです。ソ連時代のエストニアの写真家のほとんどがそうであったように、彼もまた正式な写真教育を受けていませんでした。けれども、学生時代の写真講座で写真に興味を持つようになったのです。ヴェルマーエはプロとしてのキャリアのほとんどを、報道・広告カメラマンとして従事してきましたが、彼の関心は建築写真と工業写真にありました。本展では、エストニアとラトビアの国境において、ソ連の占領から解放され手を取り合ったバルトの道の夜の光景を撮影した彼の唯一無二のシリーズを見ることができます。

「ソ連時代のエストニアにおいて、人間の研究、共感の深化、生活環境を分析することで、撮影者、被写体、鑑賞者の間につながりを生み出す人間中心主義的な写真、つまり【ひとのための写真】を実践することはどれほど可能だったのだろうか。」というタイトルにある仮定の質問に答えるとすれば、残念ながら公の場ではその可能性は最小限にとどまりました。エストニア写真史の第一人者の一人、ペーター・リナップ(5)は、エストニアのフォトクラブは、ソ連の機関としてイデオロギー統制という避けることは難しく、芸術評議会と作品評価制度(審査員と予備審査員)を通じてそれを行なっていたと指摘しています。リナップの見解では、人間中心主義的な写真とは異なるものの密接に関連する、いわゆる社会批判的フォトドキュメンタリーという重要な分野は、ドキュメンタリーの重要な一分野にも関わらず、ほぼ完全に抑圧されていたと言います。本展で紹介される作家たちの作品の中に、ソ連体制下の規範と検閲を打ち破り、鉄のカーテンの向こうの人々や人間性という物語を語れたものがあるかどうかは、鑑賞者であるみなさんの判断に委ねられています。

  1. A. Rünk, K. Lukats, Art belongs to the people - but what about photographic art? Sirp ja Vasar 16. V 1980

  2. P. Linnap, Estonian History of Photography 1839–2015, lk 185.

  3. J. Treima, Kunstilisest fotograafiast Eesti 1960.–1970. aastate fotograafiaretseptsioonis, Eesti Kunstiakadeemia, 2010

  4. T. Verk, P. Langovits, Peeter Langovits ½ sajandit, lk 63, Tallinna Linnamuuseum, 2021

  5. P. Linnap, Klubilisest fotograafiast, TMK 1993, nr 8, lk 31-40

その他のエッセイ :
ソ連時代のエストニアにおける人間中心主義的な写真の可能性について

トーマス・ヤールベルト

映像作家、映像人類学者、Juhan Kuus Documentary Photo Centre共同設立者(エストニア)

「妻は夫が写真家であろうと酒飲みであろうと気にしない。どちらの場合も家計は非常に厳しいからだ」(1)

この冒頭文は、ソ連時代のエストニアでヒューマニスト:人間中心主義的な写真、つまり【ひとのための写真】を追求することの課題と現実を風刺的なユーモアで物語ると共に、当時の写真というものへの過小評価を浮き彫りにしています。第二次世界大戦前は西欧諸国、またエストニアにおいても写真は立派な芸術形態と見なされていましたが、戦争とそれに続くソ連の占領、さらにはスターリン体制によって、エストニア写真の発展には約20年間(1940年-1960年頃)の空白期間が生じました。この時期、写真は主に社会主義報道機関のカメラマンらによるプロパガンダの道具として使われるものでした。個人がカメラを所有するということは、体制にとって危険な存在とみなされ、公共の場では嫌われ、疑惑の目で扱われることを意味しました。さらに、それまでいた写真家たちが西側か東側に強制移住させられたことで、この空白期は一層深刻化しました。

スターリン死後の体制の軟化にもかかわらず、結果として生じた空白期とそれに伴う連続性の断絶により、写真の芸術的地位は回復することはありませんでした。写真は独立した芸術とはみなされず、どの大学でも教えられていなかったのです。1970年代に芸術家らの圧力によって国立美術学校の絵画学科で写真を学べるようになりましたが、大局的にみると状況は変わっていませんでした。写真はせいぜい職業訓練と見なされており、1969年よりタリン第二技術学校で写真が教えられています。(2)

そのため、エストニアにおける写真発展の最も大きな原動力が、1960年代に始まった数多くのフォトクラブの創設であったことは驚くにはあたりません。ある時点では、全国で10以上のフォトクラブが設立されていました。アーティスト・ユニオンのような写真家のためのプロフェッショナルなクリエイティブ・ユニオンの設立を求める声もマスコミで繰り返し取り上げられたにもかかわらず、ソビエト時代が終わるまでそれが実現することはなかったのです。そのため、写真家たちはフォトクラブ (3)という形で自らを組織化する必要がありました。フォトクラブはその性質上、アマチュア、報道関係者、アーティストらを包摂する民主的な組織でした。エリート主義とは無縁のこの環境は、素朴さ、人間性、感情的な深みを重視し、普通の人々の物語や経験を伝えようとする「ひとのための写真」にとって好ましい土壌を作り出したとも考えられます。残念ながら(そしてもちろん)、当局による検閲のため、鑑賞者が本物の人間描写を目にすることはほとんどありませんでした。まれに成功するとすれば、それは主に、芸術的な自己表現というベールで写真家がそれを覆い隠したか、銀塩プリント層の間にもっとあいまいなメッセージとしてそれを隠す巧みさによるものでした。

時が過ぎ、フォトクラブに対抗する形でフォトグループが登場するようになりました。同じ世界観をもち、野心的であり、芸術的志向も近い狭いサークルが集まったものです。エストニアにおいて、最も有名で影響力のあったグループがSTODOMとBEGでした。本展においても、STODOMのペーター・トーミングとカリル・スール、BEGのエネ・ケルマが含まれています。STODOMは1964年にカリル・スールの自宅で集まった写真家たちによって創設されました。それはまた、写真芸術に焦点を当てることを目的とした、ソビエト連邦初の、独立した創作団体でもありました。

STODOMの代表的な思想家のひとりはペーター・トーミング(1939-1997)です。彼は何千枚もの写真を撮影するだけでなく、様々な機関に働きかけ、芸術分野において写真の正当な地位を獲得しようと数多くの論文や訴えを発表しました。本展では、彼の女性の身体と環境との関係を探求する作品の中から、人工空間(採石場)と自然空間(海辺や森の近くの草原)の両方にモデルを配した作品を選びました。写真芸術的に見事なこれらの作品はヌードに分類されますが、大胆でユーモラス、驚きと哀愁に満ちたトーミングらしさをみることができます。


カリユ・スール(1928-2013)は、創造性に富み、常にさまざまなジャンルをスムーズに行き来していました。本展では彼が撮影した普通の人々や日常生活の瞬間の中から、高齢者を写したシリーズを中心に作品を選びました。作品は素朴で魅力的ですが、それぞれが物語を語り、鑑賞者に想像の余地を残します。2つ目のコレクションは、報道カメラマン時代にバルトの道に参加した人々を撮影したシリーズです。


1975年にスタートしたフォトグループBEGもまた、エストニアの写真界に新風を吹き込もうとしていました。その創設者の一人であり、最も著名な女性代表の一人がエネ・ケルマ(1948年生まれ)です。本展では、彼女の最も重要な2つのシリーズから、いずれも子どもに関する作品を選んでいます。

エネ・カルマは農村部の人々とその生活を写し出す写真家として知られており、本展では『Where Grandma Was Born(おばあちゃんが生まれたところ)』と題したシリーズも展示されます。この作品では、晴れた夏に古い農場でポーズをとる作者の近親者の子どもたちが写し出されています。無邪気な子どもたちは、時を経てすり減った農場に希望の光を灯す存在であり、あるいは田舎での生活を続けることが可能であることの証明として機能しています。もしあなたが、この散文的なシリーズをソ連時代の環境の中で鑑賞し、多くの農場がシベリア強制移住の後に空家になり廃れていったことを知ったならば、この写真に宿る無邪気な物語には、より深い意味が込められていることがわかるでしょう。厳しい検閲下においても、繊細な芸術的手法を用いることで、彼らに気付かれることなくデリケートな問題を提起することが可能であったという好例と言えるかもしれません。


カリル・スールにも師事したアルノ・サール(1953-2022)は、エストニア最大のフォトクラブであるタリン・フォトクラブに所属していましたが、1982年にクラブから追放されました。当時ソ連で禁止されていたアンサンブルのソリストであり、エストニアの伝説的ミュージシャン、俳優のペーター・ヴォルゴンスキのポートレートを写真展に出品したためです。本展でもソ連時代のエストニアで禁止されていたパンク・ムーブメントを写し出したサールの代表作から、ポートレート6点を展示しています。サールは直接的な弾圧の脅威をものともせず、パンクをこのような体系的な方法で撮影し、ソ連占領末期においても社会に勇敢な一面があると示した、数少ない写真家の一人でした。


ペーター・ランゴヴィッツ(1948年生まれ)もまた、タリン・フォトクラブに所属していました。写真展に参加するなど活発なメンバーでしたが、彼は1970年代のフォトクラブでは一般的だった自然や女性の身体、特殊技法の実験などには興味がなく、むしろ人を取り巻く都市空間とその変化、そしてその中における人間のポジションというものに好奇心を持っていました。本展では彼の代表作の一つ『Morning at the New Neighbourhood(新しい住宅街の朝)』(1982-1984年)から抜粋して展示しています。このシリーズは上記の関心から直接着想を得たものです。撮影場所は写真家自身も住んでいた、ユニークな環状の新興住宅地・オイスメーです。ランゴヴィッツは「私が住んでいた新しい居住地での美しい朝が、この時代の特徴である、霧に包まれ、目覚めたばかりの近隣を撮影するという幸運な機会を与えてくれ、写真展の構成を助けてくれたのです」と述べています。(4)


ティート・ヴェルマーエ(1950年生)はフォトクラブには所属していませんでしたが、1987年にエストニアで設立されたフォト・アーティスト協会の創立メンバーです。ソ連時代のエストニアの写真家のほとんどがそうであったように、彼もまた正式な写真教育を受けていませんでした。けれども、学生時代の写真講座で写真に興味を持つようになったのです。ヴェルマーエはプロとしてのキャリアのほとんどを、報道・広告カメラマンとして従事してきましたが、彼の関心は建築写真と工業写真にありました。本展では、エストニアとラトビアの国境において、ソ連の占領から解放され手を取り合ったバルトの道の夜の光景を撮影した彼の唯一無二のシリーズを見ることができます。

「ソ連時代のエストニアにおいて、人間の研究、共感の深化、生活環境を分析することで、撮影者、被写体、鑑賞者の間につながりを生み出す人間中心主義的な写真、つまり【ひとのための写真】を実践することはどれほど可能だったのだろうか。」というタイトルにある仮定の質問に答えるとすれば、残念ながら公の場ではその可能性は最小限にとどまりました。エストニア写真史の第一人者の一人、ペーター・リナップ(5)は、エストニアのフォトクラブは、ソ連の機関としてイデオロギー統制という避けることは難しく、芸術評議会と作品評価制度(審査員と予備審査員)を通じてそれを行なっていたと指摘しています。リナップの見解では、人間中心主義的な写真とは異なるものの密接に関連する、いわゆる社会批判的フォトドキュメンタリーという重要な分野は、ドキュメンタリーの重要な一分野にも関わらず、ほぼ完全に抑圧されていたと言います。本展で紹介される作家たちの作品の中に、ソ連体制下の規範と検閲を打ち破り、鉄のカーテンの向こうの人々や人間性という物語を語れたものがあるかどうかは、鑑賞者であるみなさんの判断に委ねられています。

  1. A. Rünk, K. Lukats, Art belongs to the people - but what about photographic art? Sirp ja Vasar 16. V 1980

  2. P. Linnap, Estonian History of Photography 1839–2015, lk 185.

  3. J. Treima, Kunstilisest fotograafiast Eesti 1960.–1970. aastate fotograafiaretseptsioonis, Eesti Kunstiakadeemia, 2010

  4. T. Verk, P. Langovits, Peeter Langovits ½ sajandit, lk 63, Tallinna Linnamuuseum, 2021

  5. P. Linnap, Klubilisest fotograafiast, TMK 1993, nr 8, lk 31-40

その他のエッセイ :
ソ連時代のエストニアにおける人間中心主義的な写真の可能性について

トーマス・ヤールベルト

映像作家、映像人類学者、Juhan Kuus Documentary Photo Centre共同設立者(エストニア)

「妻は夫が写真家であろうと酒飲みであろうと気にしない。どちらの場合も家計は非常に厳しいからだ」(1)

この冒頭文は、ソ連時代のエストニアでヒューマニスト:人間中心主義的な写真、つまり【ひとのための写真】を追求することの課題と現実を風刺的なユーモアで物語ると共に、当時の写真というものへの過小評価を浮き彫りにしています。第二次世界大戦前は西欧諸国、またエストニアにおいても写真は立派な芸術形態と見なされていましたが、戦争とそれに続くソ連の占領、さらにはスターリン体制によって、エストニア写真の発展には約20年間(1940年-1960年頃)の空白期間が生じました。この時期、写真は主に社会主義報道機関のカメラマンらによるプロパガンダの道具として使われるものでした。個人がカメラを所有するということは、体制にとって危険な存在とみなされ、公共の場では嫌われ、疑惑の目で扱われることを意味しました。さらに、それまでいた写真家たちが西側か東側に強制移住させられたことで、この空白期は一層深刻化しました。

スターリン死後の体制の軟化にもかかわらず、結果として生じた空白期とそれに伴う連続性の断絶により、写真の芸術的地位は回復することはありませんでした。写真は独立した芸術とはみなされず、どの大学でも教えられていなかったのです。1970年代に芸術家らの圧力によって国立美術学校の絵画学科で写真を学べるようになりましたが、大局的にみると状況は変わっていませんでした。写真はせいぜい職業訓練と見なされており、1969年よりタリン第二技術学校で写真が教えられています。(2)

そのため、エストニアにおける写真発展の最も大きな原動力が、1960年代に始まった数多くのフォトクラブの創設であったことは驚くにはあたりません。ある時点では、全国で10以上のフォトクラブが設立されていました。アーティスト・ユニオンのような写真家のためのプロフェッショナルなクリエイティブ・ユニオンの設立を求める声もマスコミで繰り返し取り上げられたにもかかわらず、ソビエト時代が終わるまでそれが実現することはなかったのです。そのため、写真家たちはフォトクラブ (3)という形で自らを組織化する必要がありました。フォトクラブはその性質上、アマチュア、報道関係者、アーティストらを包摂する民主的な組織でした。エリート主義とは無縁のこの環境は、素朴さ、人間性、感情的な深みを重視し、普通の人々の物語や経験を伝えようとする「ひとのための写真」にとって好ましい土壌を作り出したとも考えられます。残念ながら(そしてもちろん)、当局による検閲のため、鑑賞者が本物の人間描写を目にすることはほとんどありませんでした。まれに成功するとすれば、それは主に、芸術的な自己表現というベールで写真家がそれを覆い隠したか、銀塩プリント層の間にもっとあいまいなメッセージとしてそれを隠す巧みさによるものでした。

時が過ぎ、フォトクラブに対抗する形でフォトグループが登場するようになりました。同じ世界観をもち、野心的であり、芸術的志向も近い狭いサークルが集まったものです。エストニアにおいて、最も有名で影響力のあったグループがSTODOMとBEGでした。本展においても、STODOMのペーター・トーミングとカリル・スール、BEGのエネ・ケルマが含まれています。STODOMは1964年にカリル・スールの自宅で集まった写真家たちによって創設されました。それはまた、写真芸術に焦点を当てることを目的とした、ソビエト連邦初の、独立した創作団体でもありました。

STODOMの代表的な思想家のひとりはペーター・トーミング(1939-1997)です。彼は何千枚もの写真を撮影するだけでなく、様々な機関に働きかけ、芸術分野において写真の正当な地位を獲得しようと数多くの論文や訴えを発表しました。本展では、彼の女性の身体と環境との関係を探求する作品の中から、人工空間(採石場)と自然空間(海辺や森の近くの草原)の両方にモデルを配した作品を選びました。写真芸術的に見事なこれらの作品はヌードに分類されますが、大胆でユーモラス、驚きと哀愁に満ちたトーミングらしさをみることができます。


カリユ・スール(1928-2013)は、創造性に富み、常にさまざまなジャンルをスムーズに行き来していました。本展では彼が撮影した普通の人々や日常生活の瞬間の中から、高齢者を写したシリーズを中心に作品を選びました。作品は素朴で魅力的ですが、それぞれが物語を語り、鑑賞者に想像の余地を残します。2つ目のコレクションは、報道カメラマン時代にバルトの道に参加した人々を撮影したシリーズです。


1975年にスタートしたフォトグループBEGもまた、エストニアの写真界に新風を吹き込もうとしていました。その創設者の一人であり、最も著名な女性代表の一人がエネ・ケルマ(1948年生まれ)です。本展では、彼女の最も重要な2つのシリーズから、いずれも子どもに関する作品を選んでいます。

エネ・カルマは農村部の人々とその生活を写し出す写真家として知られており、本展では『Where Grandma Was Born(おばあちゃんが生まれたところ)』と題したシリーズも展示されます。この作品では、晴れた夏に古い農場でポーズをとる作者の近親者の子どもたちが写し出されています。無邪気な子どもたちは、時を経てすり減った農場に希望の光を灯す存在であり、あるいは田舎での生活を続けることが可能であることの証明として機能しています。もしあなたが、この散文的なシリーズをソ連時代の環境の中で鑑賞し、多くの農場がシベリア強制移住の後に空家になり廃れていったことを知ったならば、この写真に宿る無邪気な物語には、より深い意味が込められていることがわかるでしょう。厳しい検閲下においても、繊細な芸術的手法を用いることで、彼らに気付かれることなくデリケートな問題を提起することが可能であったという好例と言えるかもしれません。


カリル・スールにも師事したアルノ・サール(1953-2022)は、エストニア最大のフォトクラブであるタリン・フォトクラブに所属していましたが、1982年にクラブから追放されました。当時ソ連で禁止されていたアンサンブルのソリストであり、エストニアの伝説的ミュージシャン、俳優のペーター・ヴォルゴンスキのポートレートを写真展に出品したためです。本展でもソ連時代のエストニアで禁止されていたパンク・ムーブメントを写し出したサールの代表作から、ポートレート6点を展示しています。サールは直接的な弾圧の脅威をものともせず、パンクをこのような体系的な方法で撮影し、ソ連占領末期においても社会に勇敢な一面があると示した、数少ない写真家の一人でした。


ペーター・ランゴヴィッツ(1948年生まれ)もまた、タリン・フォトクラブに所属していました。写真展に参加するなど活発なメンバーでしたが、彼は1970年代のフォトクラブでは一般的だった自然や女性の身体、特殊技法の実験などには興味がなく、むしろ人を取り巻く都市空間とその変化、そしてその中における人間のポジションというものに好奇心を持っていました。本展では彼の代表作の一つ『Morning at the New Neighbourhood(新しい住宅街の朝)』(1982-1984年)から抜粋して展示しています。このシリーズは上記の関心から直接着想を得たものです。撮影場所は写真家自身も住んでいた、ユニークな環状の新興住宅地・オイスメーです。ランゴヴィッツは「私が住んでいた新しい居住地での美しい朝が、この時代の特徴である、霧に包まれ、目覚めたばかりの近隣を撮影するという幸運な機会を与えてくれ、写真展の構成を助けてくれたのです」と述べています。(4)


ティート・ヴェルマーエ(1950年生)はフォトクラブには所属していませんでしたが、1987年にエストニアで設立されたフォト・アーティスト協会の創立メンバーです。ソ連時代のエストニアの写真家のほとんどがそうであったように、彼もまた正式な写真教育を受けていませんでした。けれども、学生時代の写真講座で写真に興味を持つようになったのです。ヴェルマーエはプロとしてのキャリアのほとんどを、報道・広告カメラマンとして従事してきましたが、彼の関心は建築写真と工業写真にありました。本展では、エストニアとラトビアの国境において、ソ連の占領から解放され手を取り合ったバルトの道の夜の光景を撮影した彼の唯一無二のシリーズを見ることができます。

「ソ連時代のエストニアにおいて、人間の研究、共感の深化、生活環境を分析することで、撮影者、被写体、鑑賞者の間につながりを生み出す人間中心主義的な写真、つまり【ひとのための写真】を実践することはどれほど可能だったのだろうか。」というタイトルにある仮定の質問に答えるとすれば、残念ながら公の場ではその可能性は最小限にとどまりました。エストニア写真史の第一人者の一人、ペーター・リナップ(5)は、エストニアのフォトクラブは、ソ連の機関としてイデオロギー統制という避けることは難しく、芸術評議会と作品評価制度(審査員と予備審査員)を通じてそれを行なっていたと指摘しています。リナップの見解では、人間中心主義的な写真とは異なるものの密接に関連する、いわゆる社会批判的フォトドキュメンタリーという重要な分野は、ドキュメンタリーの重要な一分野にも関わらず、ほぼ完全に抑圧されていたと言います。本展で紹介される作家たちの作品の中に、ソ連体制下の規範と検閲を打ち破り、鉄のカーテンの向こうの人々や人間性という物語を語れたものがあるかどうかは、鑑賞者であるみなさんの判断に委ねられています。

  1. A. Rünk, K. Lukats, Art belongs to the people - but what about photographic art? Sirp ja Vasar 16. V 1980

  2. P. Linnap, Estonian History of Photography 1839–2015, lk 185.

  3. J. Treima, Kunstilisest fotograafiast Eesti 1960.–1970. aastate fotograafiaretseptsioonis, Eesti Kunstiakadeemia, 2010

  4. T. Verk, P. Langovits, Peeter Langovits ½ sajandit, lk 63, Tallinna Linnamuuseum, 2021

  5. P. Linnap, Klubilisest fotograafiast, TMK 1993, nr 8, lk 31-40

その他のエッセイ :
ソ連時代のエストニアにおける人間中心主義的な写真の可能性について

トーマス・ヤールベルト

映像作家、映像人類学者、Juhan Kuus Documentary Photo Centre共同設立者(エストニア)

「妻は夫が写真家であろうと酒飲みであろうと気にしない。どちらの場合も家計は非常に厳しいからだ」(1)

この冒頭文は、ソ連時代のエストニアでヒューマニスト:人間中心主義的な写真、つまり【ひとのための写真】を追求することの課題と現実を風刺的なユーモアで物語ると共に、当時の写真というものへの過小評価を浮き彫りにしています。第二次世界大戦前は西欧諸国、またエストニアにおいても写真は立派な芸術形態と見なされていましたが、戦争とそれに続くソ連の占領、さらにはスターリン体制によって、エストニア写真の発展には約20年間(1940年-1960年頃)の空白期間が生じました。この時期、写真は主に社会主義報道機関のカメラマンらによるプロパガンダの道具として使われるものでした。個人がカメラを所有するということは、体制にとって危険な存在とみなされ、公共の場では嫌われ、疑惑の目で扱われることを意味しました。さらに、それまでいた写真家たちが西側か東側に強制移住させられたことで、この空白期は一層深刻化しました。

スターリン死後の体制の軟化にもかかわらず、結果として生じた空白期とそれに伴う連続性の断絶により、写真の芸術的地位は回復することはありませんでした。写真は独立した芸術とはみなされず、どの大学でも教えられていなかったのです。1970年代に芸術家らの圧力によって国立美術学校の絵画学科で写真を学べるようになりましたが、大局的にみると状況は変わっていませんでした。写真はせいぜい職業訓練と見なされており、1969年よりタリン第二技術学校で写真が教えられています。(2)

そのため、エストニアにおける写真発展の最も大きな原動力が、1960年代に始まった数多くのフォトクラブの創設であったことは驚くにはあたりません。ある時点では、全国で10以上のフォトクラブが設立されていました。アーティスト・ユニオンのような写真家のためのプロフェッショナルなクリエイティブ・ユニオンの設立を求める声もマスコミで繰り返し取り上げられたにもかかわらず、ソビエト時代が終わるまでそれが実現することはなかったのです。そのため、写真家たちはフォトクラブ (3)という形で自らを組織化する必要がありました。フォトクラブはその性質上、アマチュア、報道関係者、アーティストらを包摂する民主的な組織でした。エリート主義とは無縁のこの環境は、素朴さ、人間性、感情的な深みを重視し、普通の人々の物語や経験を伝えようとする「ひとのための写真」にとって好ましい土壌を作り出したとも考えられます。残念ながら(そしてもちろん)、当局による検閲のため、鑑賞者が本物の人間描写を目にすることはほとんどありませんでした。まれに成功するとすれば、それは主に、芸術的な自己表現というベールで写真家がそれを覆い隠したか、銀塩プリント層の間にもっとあいまいなメッセージとしてそれを隠す巧みさによるものでした。

時が過ぎ、フォトクラブに対抗する形でフォトグループが登場するようになりました。同じ世界観をもち、野心的であり、芸術的志向も近い狭いサークルが集まったものです。エストニアにおいて、最も有名で影響力のあったグループがSTODOMとBEGでした。本展においても、STODOMのペーター・トーミングとカリル・スール、BEGのエネ・ケルマが含まれています。STODOMは1964年にカリル・スールの自宅で集まった写真家たちによって創設されました。それはまた、写真芸術に焦点を当てることを目的とした、ソビエト連邦初の、独立した創作団体でもありました。

STODOMの代表的な思想家のひとりはペーター・トーミング(1939-1997)です。彼は何千枚もの写真を撮影するだけでなく、様々な機関に働きかけ、芸術分野において写真の正当な地位を獲得しようと数多くの論文や訴えを発表しました。本展では、彼の女性の身体と環境との関係を探求する作品の中から、人工空間(採石場)と自然空間(海辺や森の近くの草原)の両方にモデルを配した作品を選びました。写真芸術的に見事なこれらの作品はヌードに分類されますが、大胆でユーモラス、驚きと哀愁に満ちたトーミングらしさをみることができます。


カリユ・スール(1928-2013)は、創造性に富み、常にさまざまなジャンルをスムーズに行き来していました。本展では彼が撮影した普通の人々や日常生活の瞬間の中から、高齢者を写したシリーズを中心に作品を選びました。作品は素朴で魅力的ですが、それぞれが物語を語り、鑑賞者に想像の余地を残します。2つ目のコレクションは、報道カメラマン時代にバルトの道に参加した人々を撮影したシリーズです。


1975年にスタートしたフォトグループBEGもまた、エストニアの写真界に新風を吹き込もうとしていました。その創設者の一人であり、最も著名な女性代表の一人がエネ・ケルマ(1948年生まれ)です。本展では、彼女の最も重要な2つのシリーズから、いずれも子どもに関する作品を選んでいます。

エネ・カルマは農村部の人々とその生活を写し出す写真家として知られており、本展では『Where Grandma Was Born(おばあちゃんが生まれたところ)』と題したシリーズも展示されます。この作品では、晴れた夏に古い農場でポーズをとる作者の近親者の子どもたちが写し出されています。無邪気な子どもたちは、時を経てすり減った農場に希望の光を灯す存在であり、あるいは田舎での生活を続けることが可能であることの証明として機能しています。もしあなたが、この散文的なシリーズをソ連時代の環境の中で鑑賞し、多くの農場がシベリア強制移住の後に空家になり廃れていったことを知ったならば、この写真に宿る無邪気な物語には、より深い意味が込められていることがわかるでしょう。厳しい検閲下においても、繊細な芸術的手法を用いることで、彼らに気付かれることなくデリケートな問題を提起することが可能であったという好例と言えるかもしれません。


カリル・スールにも師事したアルノ・サール(1953-2022)は、エストニア最大のフォトクラブであるタリン・フォトクラブに所属していましたが、1982年にクラブから追放されました。当時ソ連で禁止されていたアンサンブルのソリストであり、エストニアの伝説的ミュージシャン、俳優のペーター・ヴォルゴンスキのポートレートを写真展に出品したためです。本展でもソ連時代のエストニアで禁止されていたパンク・ムーブメントを写し出したサールの代表作から、ポートレート6点を展示しています。サールは直接的な弾圧の脅威をものともせず、パンクをこのような体系的な方法で撮影し、ソ連占領末期においても社会に勇敢な一面があると示した、数少ない写真家の一人でした。


ペーター・ランゴヴィッツ(1948年生まれ)もまた、タリン・フォトクラブに所属していました。写真展に参加するなど活発なメンバーでしたが、彼は1970年代のフォトクラブでは一般的だった自然や女性の身体、特殊技法の実験などには興味がなく、むしろ人を取り巻く都市空間とその変化、そしてその中における人間のポジションというものに好奇心を持っていました。本展では彼の代表作の一つ『Morning at the New Neighbourhood(新しい住宅街の朝)』(1982-1984年)から抜粋して展示しています。このシリーズは上記の関心から直接着想を得たものです。撮影場所は写真家自身も住んでいた、ユニークな環状の新興住宅地・オイスメーです。ランゴヴィッツは「私が住んでいた新しい居住地での美しい朝が、この時代の特徴である、霧に包まれ、目覚めたばかりの近隣を撮影するという幸運な機会を与えてくれ、写真展の構成を助けてくれたのです」と述べています。(4)


ティート・ヴェルマーエ(1950年生)はフォトクラブには所属していませんでしたが、1987年にエストニアで設立されたフォト・アーティスト協会の創立メンバーです。ソ連時代のエストニアの写真家のほとんどがそうであったように、彼もまた正式な写真教育を受けていませんでした。けれども、学生時代の写真講座で写真に興味を持つようになったのです。ヴェルマーエはプロとしてのキャリアのほとんどを、報道・広告カメラマンとして従事してきましたが、彼の関心は建築写真と工業写真にありました。本展では、エストニアとラトビアの国境において、ソ連の占領から解放され手を取り合ったバルトの道の夜の光景を撮影した彼の唯一無二のシリーズを見ることができます。

「ソ連時代のエストニアにおいて、人間の研究、共感の深化、生活環境を分析することで、撮影者、被写体、鑑賞者の間につながりを生み出す人間中心主義的な写真、つまり【ひとのための写真】を実践することはどれほど可能だったのだろうか。」というタイトルにある仮定の質問に答えるとすれば、残念ながら公の場ではその可能性は最小限にとどまりました。エストニア写真史の第一人者の一人、ペーター・リナップ(5)は、エストニアのフォトクラブは、ソ連の機関としてイデオロギー統制という避けることは難しく、芸術評議会と作品評価制度(審査員と予備審査員)を通じてそれを行なっていたと指摘しています。リナップの見解では、人間中心主義的な写真とは異なるものの密接に関連する、いわゆる社会批判的フォトドキュメンタリーという重要な分野は、ドキュメンタリーの重要な一分野にも関わらず、ほぼ完全に抑圧されていたと言います。本展で紹介される作家たちの作品の中に、ソ連体制下の規範と検閲を打ち破り、鉄のカーテンの向こうの人々や人間性という物語を語れたものがあるかどうかは、鑑賞者であるみなさんの判断に委ねられています。

  1. A. Rünk, K. Lukats, Art belongs to the people - but what about photographic art? Sirp ja Vasar 16. V 1980

  2. P. Linnap, Estonian History of Photography 1839–2015, lk 185.

  3. J. Treima, Kunstilisest fotograafiast Eesti 1960.–1970. aastate fotograafiaretseptsioonis, Eesti Kunstiakadeemia, 2010

  4. T. Verk, P. Langovits, Peeter Langovits ½ sajandit, lk 63, Tallinna Linnamuuseum, 2021

  5. P. Linnap, Klubilisest fotograafiast, TMK 1993, nr 8, lk 31-40

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