展覧会について

日本初のバルト諸国共同アートプロジェクト。1960〜1990年のヒューマニズム写真の黄金時代を代表する17人の写真家による200点以上の作品と「バルトの道」を、東京で最も権威あるギャラリーのひとつであるスパイラルガーデンにて展示いたします。

ヒューマニズム写真とは

第二次世界大戦の余波から生まれたヒューマニズム写真運動は、戦争の恐怖よりも個人の人間性の重要性を強調し、平和を促進することを目的としています。バルト諸国のヒューマニスト写真家たちは、厳しい国家検閲と、彼らのグローバルな視点に向けられる敵意に対して、視覚的メタファー、隠されたメッセージ、「隠語」を用いることで、これらの制約を乗り越えようとしました。

この展示は、人間の日常生活、表現の自由、芸術の社会的責任に焦点を当てています。フェイクニュースの拡散やウクライナでの戦争が続くなか、これらのトピックは重要であり、観客の共感を呼び起こすでしょう。

アルゲルダス・シャシュコス

(

1945年生まれ

)
(

リトアニア

)

は、「......だが、写真というものにはイメージは必要ないのだという感覚は、まったくもって正しいのである」という言葉を好んで使用した。とはいえ、1970年代後半に展覧会活動を始めた当初、彼の作品はまるで理解されなかった。不適切な構図、過剰露光、傷だらけのネガ、歪んだフレーミングなど、「退屈の美学」と呼ばれる、明らかな平凡さ、単調さ、偽のアマチュアリズムは正当化されがたかったためである。だが、シャシュコスにとって写真は、見る者と現実を隔てる膜であり、見えるものに名前を付けるよりも、その振動に耳を傾けるべきものであった。1975年から1985年まで、彼はリトアニアテレビの撮影スタッフとして現実の「正しい」バージョンを撮影している。その一方で、そうではないバージョン、人々が出演の準備をする様子も撮影していた。その写真の中では、アナウンサー、体操選手、ダンサーたちがスタジオという人工的な時空の中で捉えられ、別の人生への憧れを発しているようにみえる。シャシュコスは画家としても活動し、前衛芸術運動にも参加していたが、1990年代初頭には芸術から離れ、そして2010年に写真集の出版を再開した。2017年にはドイツのカッセルとアテネで開催されたdocumenta14(ドクメンタ14)に参加。彼の作品は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)やマドリード国立ソフィア王女美術館(Museo Nacional Reina Sofía)などの重要なパブリックコレクションに収蔵されている。

アレクサンドラス・マシアウスカス

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1938年生まれ

)
(

リトアニア

)

は、できる限り被写体に近づき、その滑らかな肌の質感を捉えることを好む。「芸術作品は人間と同じで、汚い言葉から最も繊細なニュアンスまで、すべてを含んでいなければならないのだ」と彼は言った。彼の父親は1944年にドイツ軍によって処刑され、母親はロシア人によってシベリアに強制送還されたため、マシアウスカスは祖父母に育てられることとなった。彼は、1967年から1973年までは報道カメラマンとして活躍し、すぐに地元カウナスの写真家協会のリーダーとなった。彼の最初のシリーズは、『Rural Markets(田舎の市場)』(1968-1980年)で、消えゆく市場の文化を撮影したものであった。次に、『Veterinary Clinics(動物のクリニック)』(1977-1984年)において動物の治療に焦点を当てた。ソ連という鉄のカーテンにもかかわらず、マシアウスカスの作品は海外でも知られるようになり、彼の作品は世界的に有名な写真家である、アンリ・カルティエ・ブレソンやブラッサイ、ロベール・ドアノーの作品と並んで展示されることとなった。しかし、市井の人々の平凡な服装や、糞で汚れた牛の姿、しわくちゃの汚れた顔などを写していたため、自国ではしばしば作品の展示は中止を命じられ、「ソ連の現実を歪め、貶めた」と非難されることとなった。一方、写真界においては、人と動物の関係を、笑いと不条理を交えて表現していると高く評価され

ロームアルダス・ポルジェルスキス

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1951年生まれ

)
(

リトアニア

)

と彼の友人たちは、オートバイでリトアニアを旅するのが好きだった。1973年、彼らは宗教的な祭りを偶然目にする。ポルジェルスキスはその光景に心を奪われた。「木造の教会、太陽の光に照らされた緑の草原と木々、白い服を着た少女たち、教会の旗、リボン、ゆっくりと動く行列、ハレの日の服を着た男女......それはすばらしい演劇のようであり、まるで別の世界から現れた幻のようだった。」翌年、彼は『Lithuanian Pilgrimages(リトアニアの巡礼)』シリーズの制作を始め、2001年までそのプロジェクトを続けた。宗教的なテーマの撮影は当局に禁止されていたが、ポルジェルスキス当局に従わなかったのは、これが初めてではなかった。ソ連の占領に対する抗議としてローマス・カランタが焼身自殺をした後、そこに集まった群衆を撮影したことで、彼はすでに逮捕されたのである。彼はそのためにカウナス工科大学を追放されたが、それでも彼はリトアニア各地の教会の祭りに参加し、人々を撮り続けた。彼はまた1988年から1991年にかけての民族復興運動と独立回復も撮影し、記録している。禁じられていたにもかかわらず、『リトアニアの巡礼』は1977年にアルル国際写真年鑑フェスティバルで展示され、批評家賞と観客賞を受賞した。このシリーズは、1990年にはシカゴで写真集『Pilgrimages(巡礼)』として出版された。

アルギマンタス・クンチュス

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1939年生まれ

)
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リトアニア

)

はカウナスで育ち、音楽と法律を学ぶためにヴィリニュスに引っ越したが、写真に打ち込み、学位を取得することなく終わった。彼は芸術系の出版物用にアーティストのポートレートを撮影する一方で、新天地であるヴィリニュスの街を撮影した。「太陽が私の道しるべであり、私はできる限り太陽を追いかけたのです。」夏になると、彼は田舎に移り住み、人々が教会に行く様子を収めた『Sundays(日曜の日々)』(1963-1984年)シリーズを撮影した。そして同じ村人たちがバルト海で日光浴を楽しむ姿も撮影したのである。この『By the Sea(海辺にて)』(1965-2015年)シリーズ全体を通し、日光浴と休息の文化が移り行く40年という時間が、あたかも幸せな1日のように写し出されている。リトアニア神話に登場する、女神ユラテの琥珀の城の壊れた破片を、海は砂浜に打ち寄せ、(段ボールでできた小道具ではあるが)ユラテ自身もまた水面から姿を現す。夕方になると、誰もがパランガの桟橋を歩いて沈む夕日に別れを告げた。空、砂浜、海を背景にしながら、波立つ水面には儚い存在である人間というスペクタクルが写し出される。彼のプリントの質感は再現不可能であり、色の淡さの極地と、「分子レベル」ともいえる解像度が、遥か彼方の風景に生命を吹き込んでいる。

ビオレタ・ブベリーテ

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1956年生まれ

)
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リトアニア

)

は、自分の裸体を撮った写真がヌード写真と見なされることを嫌う。彼女にとってこれは演劇であり、一人芝居あるいはモノ・パフォーマンスであり、ある種の絵画なのだ。「私は絵を描くことはできない。けれど、身振り、動き、演出、物との関係性を通して感情を表現できる。私の身体が絵筆なのだ。こうすることで、私は自分の人生を生きるキャラクターを創り出すことができる。」子供時代、ブベリテは芸術家になりたいと夢見たものの、家庭の経済的事情で美術学校に通うことができなかった。そこで写真家の道を選び、思春期に乗っていた馬を被写体に撮影しはじめたのである。1982年、彼女は自身の身体を題材に実験を始め、生涯をかけてモノ・スペクタクルを作り上げた。志を同じくする写真家たちからは認められたが、自分の裸体を撮影することは女性にとっては恥ずべきものとみなされ、当局や一般市民からは敬遠され、批判されることとなる。しかし、彼女は身体の変化と時の経過を表現し続けながら、生涯このプロジェクトを続けてきた。巧妙な構図と風刺的なタイトルで、彼女は文化的な固定観念や社会的な規範を皮肉っているのである。彼女の写真には美しい思想だけでなく、不快や悲しみ、苦しみという心の状態が、彼女の思いが、表現されている。

ゼンタ・ジヴィジンスカ

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1944—2011

)
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ラトビア

)

はラトビアのアーティスト、写真家。1961年から1966年まで、当時のバウハウスに相当するリガ応用芸術学校で学ぶ。1964年、写真芸術の著名な提唱者の一人であり、フォトクラブ・リガの主要メンバーの一人であったグナーズ・ビンデの通信写真教室にも通った。ジヴィジンスカの作品は、彼女の生涯や芸術が十分に評価されなかったことから、貧弱なアーカイブを残すに至りました。彼女のシリーズ作品『House by the River(川沿いの家)』は、ラトビア農村の小さな家に住む3世代の女性の日常生活を描いています。ラトビア美術界においては、フェミニズム批評が1980年代に登場するまで存在しなかったことから、今日、これらの作品はフェミニズムの概念を拡張し、独自の視点をもつという意味で、パラフェミニズム的作品と見なされています。

アイヴァース・リアピンシュ

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1953年生まれ

)
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ラトビア

)

は、1973年にラトビア国立大学でジャーナリズムを学ぶ過程で写真を始めた。1977年以降、数多くの雑誌や新聞でカメラマンとして活躍。またフォト・ニュース・エージェンシーA.F.I.の創設者の一人でもある。彼の写真はラトビア国内だけでなく、海外の様々な出版物に掲載されている。報道関係の仕事と並行して、『Kundzinsala』や『Siksala』(*共にラトビアの地名)などのシリーズを展開している。リアピンシュはラトビアで最優秀報道写真家に何度も選ばれ、1992年にはイギリスのFox Talbot Award(フォックス・タルボット賞)にノミネートされた30人のヨーロッパ人写真家の一人でもある。

アンドレス・グランツ

(

1955年生まれ

)
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ラトビア

)

はラトビアの写真家、教育者。1973年から1978年にかけてラトビア国立大学で学び、1978年から1988年までオグレ写真スタジオで働いた。1979年以降、テクニカル・ユース・ハウスで講師を務め、リトムス・イーヴァノース、アルニス・ヴァルチョス、ギンツ・ベルジンシュなど多くのラトビアの現代写真家、映画監督、アーティストに影響を与える写真教師として名を馳せる。またインタ・ローカ、ヴァルツ・クレインズ、グヴィドー・カヨンスらの写真家とともに、オグレ写真スタジオで非公式グループ「A」を設立。アンリ・カルティエ・ブレソンやロバート・フランクといったドキュメンタリー写真家の影響を受けたグループAは、ルポルタージュ的なスタイルで当時のソ連支配下のラトビアの日常生活を撮影し、しばしば批判に満ちた写真を発表した。

マーラ・ブラフマナ

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1944年生まれ

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ラトビア

)

は、ラトビアで最も有名な写真家の一人。その作品は50冊以上の書籍、アルバム、カタログに掲載されている。1962年に写真の勉強を始め、独学で写真を学ぶ。ルンダーレ宮殿美術館や国立美術館で写真家として働く。主にモノクロのドキュメンタリー・スタイルで活動。1970年代から1980年代にかけては、インフォーマルな場での人々を撮影し、社会的なルポルタージュを作成した。

グヴィドー・カヨンス

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1955年生まれ

)
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ラトビア

)

は、精緻な都市写真の巨匠であると同時に、主観的なドキュメンタリー作家としても称賛されている。彼は、彼自身がいつもその真っ只中にいたため、風刺的な路上のシーンが最も興味深いものだとしている。カヨンスの写真は、ソ連占領時代のラトビアを的確かつ鮮やかに伝えるものであり、最もよく知られたモノクロ写真シリーズ『Tema 011(主題011)』は、1970年代後半から1990年代前半までのソ連時代に撮影されたものだ。このタイトルは、タイトルに数字を使うことに関する、機知に富んだ言及である。カヨンスは作品の中で、「人間期」と「非人間期」を区別しており、その時代の間に社会主義環境を風刺したシリーズ『Subject 011(題目011)』が作られた。インタ・ローカ、アンドレス・グランツらとともに非公式グループ「A」の創設メンバーでもある。

グナーズ・ビンデ

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1933年生まれ

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ラトビア

)

は、ソ連占領時代を代表する写真家の一人。フォトクラブ・リガでの活動で知られている。1960年代から1970年代にかけて国際的に大きな成功を収めた。1965年にブエノスアイレスで開催された第29回アルゼンチン国際写真サロン(XXIX Salón Internacional de Arte Fotográfico)では、伝説的な映画監督エドゥアルド・スミフティアスの正統派ポートレート作品で金賞を受賞。ビンデは、演出、イメージ、映画的美学の原理、ドキュメンテーションを融合させた独自の演出写真の手法を開発した。

ペーター・トーミング

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1939—1997

)
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エストニア

)

はエストニアの写真家、映画監督、撮影監督であり、フォトグループSTODOMの創設メンバー。国際写真芸術連盟(FIAP)優秀賞受賞。彼の作品は「百聞は一見に如かず(一枚の写真は千の言葉に勝る)」という格言を体現している。これは、無数の写真に加え、約1,000本の写真に関する論文を発表した彼にぴったりな言葉ともいえる。彼のドキュメンタリーフォトも、演出した写真であるステージド・フォトも、鑑賞者を積極的な参加者へと導いてくれるのだ。トーミングは、写真の一時性とそのドキュメンタリー性に喜びを見出した。カール・サラップが1937年に撮影した作品と同じ写真を撮った『55 Years Later (55年後)』シリーズ(1995年)は、その最たるものといえる。『Photorondo(写真輪舞曲)』(1982年)シリーズも同様である。ピーター・トーミングの多面的な作品は、彼の場合においてはだが、良い写真の裏には常に共通項があることを示している。喜びという共通項が。

カリユ・スール

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1928—2013

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エストニア

)

はエストニアの写真家、アーティスト。タリン写真クラブ(1960年)およびフォトグループSTODOM(1964年)の創設メンバー。国際写真芸術連盟(FIAP)優秀賞受賞。彼の作品は、ポートレート、報道写真、ヌード写真など多岐にわたっており、テーマによって芸術表現が変化した。しかし、彼の自由な創造性が遺憾無く発揮されたのは、日常生活における偶発的な場面を捉えた作品である。スールは、鑑賞者が自分なりの物語を読み取れるような、素朴だが魅力的な瞬間をとらえた。彼のドキュメンタリーフォト写真は構図に制約がなく、ダイナミックである。また、スールは、ソビエトの新聞に初めてヌード写真を掲載した写真家として、歴史にその名を刻んでいる。グラヴリット(ロシア検閲局)は何度も彼のヌード写真が掲載されるのを禁止しようとし、時にそれは実を結んだ。

アルノ・サール

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1953—2022

)
(

エストニア

)

は高校卒業後、彼は他人の家での細々とした雑務を仕事にしていたが、タリンフィルムのアシスタントカメラマンになり、それがきっかけで写真に興味を持つようになった。その後、彼は退職するまでさまざまな新聞社でカメラマンとして働くこととなる。彼の代表作といえば、膨大な数のエストニアのパンクたちの写真だ。ソビエト社会において、パンクの写真を撮ることは様々な禁止事項に抵触している。というのも、バンド、音楽、文学、ライフスタイルは、検閲局グラブリットやKGBによって禁止されるか、管理されていたからである。禁止されていたパンクそれ自体もだが、サールはパンクたちの奇抜な外見や服装に魅了された。とはいえ、サールもいつも当局から逃れられたわけではなかった。例えば、一度でも彼らがフィルムの存在を暴き出すと、サールは何度もKGBに連行され、尋問や嫌がらせを受けることとなった。当局は写真の存在それ自体を望まなかったが、彼はエストニアにおけるこのサブカルチャーの存在を撮影することの重要性をよく理解していた。たとえそれがただの記録だったとしても、写真がなければこのパンクというムーブメントも実在しないのと同じことなのだ。写真が残されなければ、パンク自体がエストニアになかったことにされてしまう可能性もあっただろう。本展では彼のパンク写真から選りすぐりのものを展示している。

ペーター・ランゴヴィッツ

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1948年生まれ

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エストニア

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は、元々エンジニアとして学校を卒業し、ハンス・ペーゲルマン電気工学工場で働いていた。だが、そのうちに写真を撮り始め、やがて工場内に写真部門と本格的な暗室を設立することとなる。彼は1974年以来、国内外で350以上の展覧会やコンペティションに参加し、50近い個展を開催。また、エストニア通信社やPostimees新聞の報道カメラマンとしても活躍している。彼の作品は、都市の一般市民の日常生活を捉えた『Morning at the New Neighbourhood(新しい住宅街の朝)』(1982-1984年) 展に代表される人間中心主義的ドキュメンタリー作品で知られている。展覧会では、この代表作の中から一部が展示される。

エネ・カルマ

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1948年生まれ

)
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エストニア

)

はエストニアの写真家、フォトアーティスト。フォトグループBEGのメンバーであり、1970年代に国際写真展に参加した数少ないエストニアの女性写真家の一人である。カレマは芸術的なフォト・ドキュメンタリーを中心に作品を発表している。大判のモノクロ写真は、主にエストニアの農村部の人々とその生活を描いてきた。最も有名な『Where Grandma Was Born(おばあちゃんが生まれたところ)』(1978年)シリーズは、古びた農場において子供たちの姿を捉えたものである。彼女は、異なる世代の交わりに焦点を当て、占領後の農地の国有化と都市化によって多くの家が放棄された痛ましい現実を浮き彫りにした。彼女の作品公表は1970年代に限られており、それらは主に個人コレクションとタリンの写真美術館に所蔵されている。

ティート・ヴェルマーエ

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1950年生まれ

)
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エストニア

)

は建築写真と工業写真を専門とする写真家。美術、美術史、工芸の教員を目指し、タリン教育学院にて学ぶ。フリーランスの写真家としてさまざまな雑誌や新聞、エストニア電信局(ETA)で活躍。彼の写真はETAを通じて世界の主要出版物に掲載され、エストニアの再独立に関する多くの本を飾った。1980年代には報道家組合のメンバーであり、1987年にはエストニア写真芸術家協会の創立メンバーでもあった。新聞が、低俗なセンセーショナリズムを売物にするイエロー・ジャーナリズムへと変容していったことを機に退社し、フリーランスの写真家として商業写真や、建築写真、工業写真に専念することとなる。2018年頃までエストニア芸術学校の写真講師を務めるなど、教育分野でも長年活躍した。

導入

キュレーター

アグネ・ナルシンテ

(

リトアニア

)

美術評論家、キュレーター。特に現代写真や美術、そして写真と哲学、心理学を結びつける思想に関心。ヴィータウタス・マグヌス大学(リトアニア・カウナス)、中央ヨーロッパ大学(チェコ・プラハ)、ヴィルニュス芸術アカデミー(リトアニア・ヴィルニュス)で美術史を専攻。リトアニア国立美術館の写真コレクションをキュレーションしたほか、ヴィルニュス芸術アカデミーおよびエディンバラ・ネイピア大学(英国)での講義、リトアニアの文化週刊誌「7 meno dienos」の海外文化に関するページの編集、リトアニア国営テレビでの文化番組制作にも携わる。2008年、博士論文をもととするリトアニア語の著書『Nuobodulio estetika Lietuvos fotografijoje』を出版し、2011年には現代リトアニア写真史に関する書籍『Lietuvos fotografija: 1990-2010』を出版。現在は、ヴィルニュス芸術アカデミー美術史・美術理論学部で教授を務める。2022年、現代文化に関する貴重な考察に対してリトアニア国家賞を受賞。

博士、チーフ・キュレーター

トーマス・ヤールベルト

(

エストニア

)

キュレーター、映像作家、視覚人類学者。エストニアのタリン在住。法学および文化理論を専攻するも、常に視覚芸術に傾倒していたことから、写真と映画制作にその媒体を見出すことに。バルセロナ大学で視覚人類学の修士号を取得したことで、彼の左脳と右脳がついに結合することとなった。これまでに3本のドキュメンタリー映画を監督し、40以上の展覧会をキュレーション。Juhan Kuus Documentary Photo Centre の創設者の一人でもある。2022年、タリンのフォト・センターで開催された日本の写真展「スミマセン」をKristel Laurと共同でキュレーション。

クレスタル・エイメ・ロール

(

エストニア

)

Juhan Kuus Documentary Photo Centreの創設者の一人であり、同センターのCEO、キュレーター、デザイナーを務める。学生時代を通して心理学とデザインを融合させてきた。2001年にエストニアのタリン大学で心理学と社会教育学を専攻し、修士号を取得。ヘルシンキ大学では交換留学生として、クリエイティヴ思考とイノベーション・マネジメントを専攻。その後、エストニア芸術アカデミーでインテリア・デザインと装飾を学び、卒業(人文学学士)。修士課程ではテクスタイル・デザインを専攻。エストニア国内外で60以上の写真展のキュレーションやデザインを担当してきた。2023年、フランス文化省より芸術文化勲章を受章。

イーヴェッタ・ガーバリーニャ

(

ラトヴィア

)

写真分野を専門とするラトヴィアのアーティスト、教育者、キュレーター。2016年にヘルシンキのアールト芸術デザイン大学の修士課程を卒業(専攻は写真)。彼女の作品 "Somewhere on a disappearing path" は、COベルリン・タレント賞2013、バーン・マガジン助成金、CSDドキュメンタリー・エッセイ賞写真部門の受賞者に選ばれた。2008年より、ラトヴィアを拠点としながら国際的に活動する現代写真の教育プラットフォームISSPのメンバー兼教育プログラム・キュレーター。また、ラトヴィアで唯一の現代写真専門の展示スペースであるISSPギャラリーの創設メンバーの一人でもある。

オーガナイザー

NGO Kultūrinės ir organizacinės idėjos (KOI)

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リトアニア

)

メイン・プロジェクト・コーディネーター。KOIは、東アジアとバルト諸国との文化の架け橋となることを目的とするリトアニアの非営利団体。KOIはリトアニアにおける日本文化運動をリードする団体の一つであり、パイオニアでもある。毎年、バルト諸国最大の日本文化祭であるnowJapanを主催。また、リトアニアのクリエイティヴィティを称えるマルチジャンルのフェスティバル「Creative リトアニア」を日本で開催している。2008年以来、KOIは45以上のプロジェクトを完了し、6つの継続的なイニシアティヴを立ち上げ、120人以上の国際的なアーティストを受け入れ、82,000人以上の来場者を魅了してきた。

ISSP

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ラトヴィア

)

ISSPは現代写真、アート、教育のためのプラットフォームである。ISSPは、アートと社会のつながりを探求しながら、ラトヴィア国内外での教育・交流プログラムの企画、展覧会、出版物、イベントのプロデュースを行うことで、国内外のアーティストの活発なコミュニティを形成している。ISSPギャラリーは、リーガにおける現代写真の中心的な展示・イベントスペースである。

Juhan Kuus Documentary Photo Center

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エストニア

)

The Juhan Kuus Documentary Photo Centreは、エストニアにおけるドキュメンタリー写真の評価と発展を支援し、エストニアのドキュメンタリー写真を世界に紹介している。

主任キュレーター:

Agnė Narušytė 博士

共同キュレーター:

Toomas Järvet, Iveta Gabalina, Kristel Aimee Laur

プロデューサー:

Sergej Grigorjev

コーディネーター :

Ieva Meilutė-Svinkūnienė, 原田弘子, 川上悠一

広報 :

菊池弘美

SNS運用 :

洞田貫晋一朗

制作 :

Ieva Meilutė-Svinkūnienė、原田弘子、川上悠一、きくち ひろみ、洞田貫晋一朗

デザイン :

ヘッド・デザイナー:Sergej Grigorjev

デジタル・デザイナー:Justina Ogurkis

カタログ・デザイン:Raminta Ramoškaitė

展示デザイン・コンサルタント:Vladas Suncovas

アプリ・プログラマー:Martynas Beržinskas

文章 :

日本語訳:エコツミ, 菊池弘美, 重松尚

英語編集:Markas Aurelijus Piesinas

日本語編集:坂巻ひとみ, きくち ひろみ, 重松尚

展覧会について

日本初のバルト諸国共同アートプロジェクト。1960〜1990年のヒューマニズム写真の黄金時代を代表する17人の写真家による200点以上の作品と「バルトの道」を、東京で最も権威あるギャラリーのひとつであるスパイラルガーデンにて展示いたします。

ヒューマニズム写真とは

第二次世界大戦の余波から生まれたヒューマニズム写真運動は、戦争の恐怖よりも個人の人間性の重要性を強調し、平和を促進することを目的としています。バルト諸国のヒューマニスト写真家たちは、厳しい国家検閲と、彼らのグローバルな視点に向けられる敵意に対して、視覚的メタファー、隠されたメッセージ、「隠語」を用いることで、これらの制約を乗り越えようとしました。

この展示は、人間の日常生活、表現の自由、芸術の社会的責任に焦点を当てています。フェイクニュースの拡散やウクライナでの戦争が続くなか、これらのトピックは重要であり、観客の共感を呼び起こすでしょう。

アルゲルダス・シャシュコス

(

1945年生まれ

)
(

リトアニア

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は、「......だが、写真というものにはイメージは必要ないのだという感覚は、まったくもって正しいのである」という言葉を好んで使用した。とはいえ、1970年代後半に展覧会活動を始めた当初、彼の作品はまるで理解されなかった。不適切な構図、過剰露光、傷だらけのネガ、歪んだフレーミングなど、「退屈の美学」と呼ばれる、明らかな平凡さ、単調さ、偽のアマチュアリズムは正当化されがたかったためである。だが、シャシュコスにとって写真は、見る者と現実を隔てる膜であり、見えるものに名前を付けるよりも、その振動に耳を傾けるべきものであった。1975年から1985年まで、彼はリトアニアテレビの撮影スタッフとして現実の「正しい」バージョンを撮影している。その一方で、そうではないバージョン、人々が出演の準備をする様子も撮影していた。その写真の中では、アナウンサー、体操選手、ダンサーたちがスタジオという人工的な時空の中で捉えられ、別の人生への憧れを発しているようにみえる。シャシュコスは画家としても活動し、前衛芸術運動にも参加していたが、1990年代初頭には芸術から離れ、そして2010年に写真集の出版を再開した。2017年にはドイツのカッセルとアテネで開催されたdocumenta14(ドクメンタ14)に参加。彼の作品は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)やマドリード国立ソフィア王女美術館(Museo Nacional Reina Sofía)などの重要なパブリックコレクションに収蔵されている。

アレクサンドラス・マシアウスカス

(

1938年生まれ

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(

リトアニア

)

は、できる限り被写体に近づき、その滑らかな肌の質感を捉えることを好む。「芸術作品は人間と同じで、汚い言葉から最も繊細なニュアンスまで、すべてを含んでいなければならないのだ」と彼は言った。彼の父親は1944年にドイツ軍によって処刑され、母親はロシア人によってシベリアに強制送還されたため、マシアウスカスは祖父母に育てられることとなった。彼は、1967年から1973年までは報道カメラマンとして活躍し、すぐに地元カウナスの写真家協会のリーダーとなった。彼の最初のシリーズは、『Rural Markets(田舎の市場)』(1968-1980年)で、消えゆく市場の文化を撮影したものであった。次に、『Veterinary Clinics(動物のクリニック)』(1977-1984年)において動物の治療に焦点を当てた。ソ連という鉄のカーテンにもかかわらず、マシアウスカスの作品は海外でも知られるようになり、彼の作品は世界的に有名な写真家である、アンリ・カルティエ・ブレソンやブラッサイ、ロベール・ドアノーの作品と並んで展示されることとなった。しかし、市井の人々の平凡な服装や、糞で汚れた牛の姿、しわくちゃの汚れた顔などを写していたため、自国ではしばしば作品の展示は中止を命じられ、「ソ連の現実を歪め、貶めた」と非難されることとなった。一方、写真界においては、人と動物の関係を、笑いと不条理を交えて表現していると高く評価され

ロームアルダス・ポルジェルスキス

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1951年生まれ

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リトアニア

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と彼の友人たちは、オートバイでリトアニアを旅するのが好きだった。1973年、彼らは宗教的な祭りを偶然目にする。ポルジェルスキスはその光景に心を奪われた。「木造の教会、太陽の光に照らされた緑の草原と木々、白い服を着た少女たち、教会の旗、リボン、ゆっくりと動く行列、ハレの日の服を着た男女......それはすばらしい演劇のようであり、まるで別の世界から現れた幻のようだった。」翌年、彼は『Lithuanian Pilgrimages(リトアニアの巡礼)』シリーズの制作を始め、2001年までそのプロジェクトを続けた。宗教的なテーマの撮影は当局に禁止されていたが、ポルジェルスキス当局に従わなかったのは、これが初めてではなかった。ソ連の占領に対する抗議としてローマス・カランタが焼身自殺をした後、そこに集まった群衆を撮影したことで、彼はすでに逮捕されたのである。彼はそのためにカウナス工科大学を追放されたが、それでも彼はリトアニア各地の教会の祭りに参加し、人々を撮り続けた。彼はまた1988年から1991年にかけての民族復興運動と独立回復も撮影し、記録している。禁じられていたにもかかわらず、『リトアニアの巡礼』は1977年にアルル国際写真年鑑フェスティバルで展示され、批評家賞と観客賞を受賞した。このシリーズは、1990年にはシカゴで写真集『Pilgrimages(巡礼)』として出版された。

アルギマンタス・クンチュス

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1939年生まれ

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リトアニア

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はカウナスで育ち、音楽と法律を学ぶためにヴィリニュスに引っ越したが、写真に打ち込み、学位を取得することなく終わった。彼は芸術系の出版物用にアーティストのポートレートを撮影する一方で、新天地であるヴィリニュスの街を撮影した。「太陽が私の道しるべであり、私はできる限り太陽を追いかけたのです。」夏になると、彼は田舎に移り住み、人々が教会に行く様子を収めた『Sundays(日曜の日々)』(1963-1984年)シリーズを撮影した。そして同じ村人たちがバルト海で日光浴を楽しむ姿も撮影したのである。この『By the Sea(海辺にて)』(1965-2015年)シリーズ全体を通し、日光浴と休息の文化が移り行く40年という時間が、あたかも幸せな1日のように写し出されている。リトアニア神話に登場する、女神ユラテの琥珀の城の壊れた破片を、海は砂浜に打ち寄せ、(段ボールでできた小道具ではあるが)ユラテ自身もまた水面から姿を現す。夕方になると、誰もがパランガの桟橋を歩いて沈む夕日に別れを告げた。空、砂浜、海を背景にしながら、波立つ水面には儚い存在である人間というスペクタクルが写し出される。彼のプリントの質感は再現不可能であり、色の淡さの極地と、「分子レベル」ともいえる解像度が、遥か彼方の風景に生命を吹き込んでいる。

ビオレタ・ブベリーテ

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1956年生まれ

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リトアニア

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は、自分の裸体を撮った写真がヌード写真と見なされることを嫌う。彼女にとってこれは演劇であり、一人芝居あるいはモノ・パフォーマンスであり、ある種の絵画なのだ。「私は絵を描くことはできない。けれど、身振り、動き、演出、物との関係性を通して感情を表現できる。私の身体が絵筆なのだ。こうすることで、私は自分の人生を生きるキャラクターを創り出すことができる。」子供時代、ブベリテは芸術家になりたいと夢見たものの、家庭の経済的事情で美術学校に通うことができなかった。そこで写真家の道を選び、思春期に乗っていた馬を被写体に撮影しはじめたのである。1982年、彼女は自身の身体を題材に実験を始め、生涯をかけてモノ・スペクタクルを作り上げた。志を同じくする写真家たちからは認められたが、自分の裸体を撮影することは女性にとっては恥ずべきものとみなされ、当局や一般市民からは敬遠され、批判されることとなる。しかし、彼女は身体の変化と時の経過を表現し続けながら、生涯このプロジェクトを続けてきた。巧妙な構図と風刺的なタイトルで、彼女は文化的な固定観念や社会的な規範を皮肉っているのである。彼女の写真には美しい思想だけでなく、不快や悲しみ、苦しみという心の状態が、彼女の思いが、表現されている。

ゼンタ・ジヴィジンスカ

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1944—2011

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ラトビア

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はラトビアのアーティスト、写真家。1961年から1966年まで、当時のバウハウスに相当するリガ応用芸術学校で学ぶ。1964年、写真芸術の著名な提唱者の一人であり、フォトクラブ・リガの主要メンバーの一人であったグナーズ・ビンデの通信写真教室にも通った。ジヴィジンスカの作品は、彼女の生涯や芸術が十分に評価されなかったことから、貧弱なアーカイブを残すに至りました。彼女のシリーズ作品『House by the River(川沿いの家)』は、ラトビア農村の小さな家に住む3世代の女性の日常生活を描いています。ラトビア美術界においては、フェミニズム批評が1980年代に登場するまで存在しなかったことから、今日、これらの作品はフェミニズムの概念を拡張し、独自の視点をもつという意味で、パラフェミニズム的作品と見なされています。

アイヴァース・リアピンシュ

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1953年生まれ

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ラトビア

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は、1973年にラトビア国立大学でジャーナリズムを学ぶ過程で写真を始めた。1977年以降、数多くの雑誌や新聞でカメラマンとして活躍。またフォト・ニュース・エージェンシーA.F.I.の創設者の一人でもある。彼の写真はラトビア国内だけでなく、海外の様々な出版物に掲載されている。報道関係の仕事と並行して、『Kundzinsala』や『Siksala』(*共にラトビアの地名)などのシリーズを展開している。リアピンシュはラトビアで最優秀報道写真家に何度も選ばれ、1992年にはイギリスのFox Talbot Award(フォックス・タルボット賞)にノミネートされた30人のヨーロッパ人写真家の一人でもある。

アンドレス・グランツ

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1955年生まれ

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ラトビア

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はラトビアの写真家、教育者。1973年から1978年にかけてラトビア国立大学で学び、1978年から1988年までオグレ写真スタジオで働いた。1979年以降、テクニカル・ユース・ハウスで講師を務め、リトムス・イーヴァノース、アルニス・ヴァルチョス、ギンツ・ベルジンシュなど多くのラトビアの現代写真家、映画監督、アーティストに影響を与える写真教師として名を馳せる。またインタ・ローカ、ヴァルツ・クレインズ、グヴィドー・カヨンスらの写真家とともに、オグレ写真スタジオで非公式グループ「A」を設立。アンリ・カルティエ・ブレソンやロバート・フランクといったドキュメンタリー写真家の影響を受けたグループAは、ルポルタージュ的なスタイルで当時のソ連支配下のラトビアの日常生活を撮影し、しばしば批判に満ちた写真を発表した。

マーラ・ブラフマナ

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1944年生まれ

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ラトビア

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は、ラトビアで最も有名な写真家の一人。その作品は50冊以上の書籍、アルバム、カタログに掲載されている。1962年に写真の勉強を始め、独学で写真を学ぶ。ルンダーレ宮殿美術館や国立美術館で写真家として働く。主にモノクロのドキュメンタリー・スタイルで活動。1970年代から1980年代にかけては、インフォーマルな場での人々を撮影し、社会的なルポルタージュを作成した。

グヴィドー・カヨンス

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1955年生まれ

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ラトビア

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は、精緻な都市写真の巨匠であると同時に、主観的なドキュメンタリー作家としても称賛されている。彼は、彼自身がいつもその真っ只中にいたため、風刺的な路上のシーンが最も興味深いものだとしている。カヨンスの写真は、ソ連占領時代のラトビアを的確かつ鮮やかに伝えるものであり、最もよく知られたモノクロ写真シリーズ『Tema 011(主題011)』は、1970年代後半から1990年代前半までのソ連時代に撮影されたものだ。このタイトルは、タイトルに数字を使うことに関する、機知に富んだ言及である。カヨンスは作品の中で、「人間期」と「非人間期」を区別しており、その時代の間に社会主義環境を風刺したシリーズ『Subject 011(題目011)』が作られた。インタ・ローカ、アンドレス・グランツらとともに非公式グループ「A」の創設メンバーでもある。

グナーズ・ビンデ

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1933年生まれ

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ラトビア

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は、ソ連占領時代を代表する写真家の一人。フォトクラブ・リガでの活動で知られている。1960年代から1970年代にかけて国際的に大きな成功を収めた。1965年にブエノスアイレスで開催された第29回アルゼンチン国際写真サロン(XXIX Salón Internacional de Arte Fotográfico)では、伝説的な映画監督エドゥアルド・スミフティアスの正統派ポートレート作品で金賞を受賞。ビンデは、演出、イメージ、映画的美学の原理、ドキュメンテーションを融合させた独自の演出写真の手法を開発した。

ペーター・トーミング

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1939—1997

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エストニア

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はエストニアの写真家、映画監督、撮影監督であり、フォトグループSTODOMの創設メンバー。国際写真芸術連盟(FIAP)優秀賞受賞。彼の作品は「百聞は一見に如かず(一枚の写真は千の言葉に勝る)」という格言を体現している。これは、無数の写真に加え、約1,000本の写真に関する論文を発表した彼にぴったりな言葉ともいえる。彼のドキュメンタリーフォトも、演出した写真であるステージド・フォトも、鑑賞者を積極的な参加者へと導いてくれるのだ。トーミングは、写真の一時性とそのドキュメンタリー性に喜びを見出した。カール・サラップが1937年に撮影した作品と同じ写真を撮った『55 Years Later (55年後)』シリーズ(1995年)は、その最たるものといえる。『Photorondo(写真輪舞曲)』(1982年)シリーズも同様である。ピーター・トーミングの多面的な作品は、彼の場合においてはだが、良い写真の裏には常に共通項があることを示している。喜びという共通項が。

カリユ・スール

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1928—2013

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エストニア

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はエストニアの写真家、アーティスト。タリン写真クラブ(1960年)およびフォトグループSTODOM(1964年)の創設メンバー。国際写真芸術連盟(FIAP)優秀賞受賞。彼の作品は、ポートレート、報道写真、ヌード写真など多岐にわたっており、テーマによって芸術表現が変化した。しかし、彼の自由な創造性が遺憾無く発揮されたのは、日常生活における偶発的な場面を捉えた作品である。スールは、鑑賞者が自分なりの物語を読み取れるような、素朴だが魅力的な瞬間をとらえた。彼のドキュメンタリーフォト写真は構図に制約がなく、ダイナミックである。また、スールは、ソビエトの新聞に初めてヌード写真を掲載した写真家として、歴史にその名を刻んでいる。グラヴリット(ロシア検閲局)は何度も彼のヌード写真が掲載されるのを禁止しようとし、時にそれは実を結んだ。

アルノ・サール

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1953—2022

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エストニア

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は高校卒業後、彼は他人の家での細々とした雑務を仕事にしていたが、タリンフィルムのアシスタントカメラマンになり、それがきっかけで写真に興味を持つようになった。その後、彼は退職するまでさまざまな新聞社でカメラマンとして働くこととなる。彼の代表作といえば、膨大な数のエストニアのパンクたちの写真だ。ソビエト社会において、パンクの写真を撮ることは様々な禁止事項に抵触している。というのも、バンド、音楽、文学、ライフスタイルは、検閲局グラブリットやKGBによって禁止されるか、管理されていたからである。禁止されていたパンクそれ自体もだが、サールはパンクたちの奇抜な外見や服装に魅了された。とはいえ、サールもいつも当局から逃れられたわけではなかった。例えば、一度でも彼らがフィルムの存在を暴き出すと、サールは何度もKGBに連行され、尋問や嫌がらせを受けることとなった。当局は写真の存在それ自体を望まなかったが、彼はエストニアにおけるこのサブカルチャーの存在を撮影することの重要性をよく理解していた。たとえそれがただの記録だったとしても、写真がなければこのパンクというムーブメントも実在しないのと同じことなのだ。写真が残されなければ、パンク自体がエストニアになかったことにされてしまう可能性もあっただろう。本展では彼のパンク写真から選りすぐりのものを展示している。

ペーター・ランゴヴィッツ

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1948年生まれ

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エストニア

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は、元々エンジニアとして学校を卒業し、ハンス・ペーゲルマン電気工学工場で働いていた。だが、そのうちに写真を撮り始め、やがて工場内に写真部門と本格的な暗室を設立することとなる。彼は1974年以来、国内外で350以上の展覧会やコンペティションに参加し、50近い個展を開催。また、エストニア通信社やPostimees新聞の報道カメラマンとしても活躍している。彼の作品は、都市の一般市民の日常生活を捉えた『Morning at the New Neighbourhood(新しい住宅街の朝)』(1982-1984年) 展に代表される人間中心主義的ドキュメンタリー作品で知られている。展覧会では、この代表作の中から一部が展示される。

エネ・カルマ

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1948年生まれ

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エストニア

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はエストニアの写真家、フォトアーティスト。フォトグループBEGのメンバーであり、1970年代に国際写真展に参加した数少ないエストニアの女性写真家の一人である。カレマは芸術的なフォト・ドキュメンタリーを中心に作品を発表している。大判のモノクロ写真は、主にエストニアの農村部の人々とその生活を描いてきた。最も有名な『Where Grandma Was Born(おばあちゃんが生まれたところ)』(1978年)シリーズは、古びた農場において子供たちの姿を捉えたものである。彼女は、異なる世代の交わりに焦点を当て、占領後の農地の国有化と都市化によって多くの家が放棄された痛ましい現実を浮き彫りにした。彼女の作品公表は1970年代に限られており、それらは主に個人コレクションとタリンの写真美術館に所蔵されている。

ティート・ヴェルマーエ

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1950年生まれ

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エストニア

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は建築写真と工業写真を専門とする写真家。美術、美術史、工芸の教員を目指し、タリン教育学院にて学ぶ。フリーランスの写真家としてさまざまな雑誌や新聞、エストニア電信局(ETA)で活躍。彼の写真はETAを通じて世界の主要出版物に掲載され、エストニアの再独立に関する多くの本を飾った。1980年代には報道家組合のメンバーであり、1987年にはエストニア写真芸術家協会の創立メンバーでもあった。新聞が、低俗なセンセーショナリズムを売物にするイエロー・ジャーナリズムへと変容していったことを機に退社し、フリーランスの写真家として商業写真や、建築写真、工業写真に専念することとなる。2018年頃までエストニア芸術学校の写真講師を務めるなど、教育分野でも長年活躍した。

導入

キュレーター

アグネ・ナルシンテ

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リトアニア

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美術評論家、キュレーター。特に現代写真や美術、そして写真と哲学、心理学を結びつける思想に関心。ヴィータウタス・マグヌス大学(リトアニア・カウナス)、中央ヨーロッパ大学(チェコ・プラハ)、ヴィルニュス芸術アカデミー(リトアニア・ヴィルニュス)で美術史を専攻。リトアニア国立美術館の写真コレクションをキュレーションしたほか、ヴィルニュス芸術アカデミーおよびエディンバラ・ネイピア大学(英国)での講義、リトアニアの文化週刊誌「7 meno dienos」の海外文化に関するページの編集、リトアニア国営テレビでの文化番組制作にも携わる。2008年、博士論文をもととするリトアニア語の著書『Nuobodulio estetika Lietuvos fotografijoje』を出版し、2011年には現代リトアニア写真史に関する書籍『Lietuvos fotografija: 1990-2010』を出版。現在は、ヴィルニュス芸術アカデミー美術史・美術理論学部で教授を務める。2022年、現代文化に関する貴重な考察に対してリトアニア国家賞を受賞。

博士、チーフ・キュレーター

トーマス・ヤールベルト

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