ラトビアのヒューマニスト:人間中心主義写真 〜フォトクラブの枠組みから自由を目指す闘い〜
ジュリア・ロデンゲリヤマ
写真研究者、FKマガジン編集者(ラトビア)
ラトビアがソ連に加盟し占領されていた1940年から1990年の間、写真は規制を守り、ソ連のイデオロギーに従った現実を反映することを強いられており、報道写真家だけがプロとして認められていました。しかし、アマチュアの間ではフォトクラブの文化が盛んになり、結果として教育、批評、アドバイスを受ける機会がうまれ、コンテストや写真展も開催されたのです。写真自体は容易にアクセスできるものだったため、全国各地にクラブが設立されました。ただし、公の場では写真芸術と呼ばれていたものの、公的なヒエラルキーの中においては、写真は職業としても芸術としても見なされていなかったことに留意する必要があります。(1) 1960年代になると、クラブメンバーが作品を海外に送り、国際展に参加できるようになりました。当時のフォトクラブの美的特徴としては、様々な装飾的な視覚表現手段、モンタージュ、ソラリゼーション、アイソヘリオンなどの使用や、強いサロニズムつまりサロン的傾向が挙げられます。
最大かつ最も影響力があったのは、1962年に設立されたフォトクラブ・リガで、その著名なメンバーの一人がグナーズ・ビンデ(1933年生まれ)です。ビンデをはじめとするフォトクラブ・リガの写真家たちは、現実の描写を平凡な次元から哲学的な次元へと移し換える、ロマンチックな雰囲気に包まれていました。(2) 1965年、ビンデはアルゼンチンで開催された国際写真展で金賞を受賞しましたが、これは彼自身にとってもクラブにとっても初めての快挙でありました。ビンデはヌード写真の巨匠として知られ、演出に興味を持ち、創造された「イメージ」を最大の価値としていました。「写真は知的分野の反映であり、情報よりも芸術が与えるものによって人は豊かになれるのだ。」(3) ビンデがモデルのサルミーテ・シーレとコラボレーションした『The Girl with the Cross(十字架を持つ少女)』シリーズ(1963 - 2013)は、象徴的な作品となりました。彼女の首に巻かれた十字架はソビエトが嫌うシンボルであり、当初、一瞬の混乱を引き起こしたものの、しかし、二人は十字架を外すことに決め(十字架のないバージョンも公開されていますが)、それに続き祈りのポーズを論理的に展開したのです。10年後、写真家とモデルは再会し、生きている限り10年ごとに同じ写真を撮り続けることに決めました。最後の写真では、シーレは年を重ね、経験を積んだ自分の体の前に、このシリーズの最初の写真を掲げています。
1964年、ビンデはリガ応用美術中等学校で写真を教え始め、その生徒のひとりがゼンタ・ジヴィジンスカ(1944-2011)でした。彼女もまた、1960年代から1970年代にかけてフォトクラブ・リガで活動しています。代表作は『Riga Pantomime(リガ・パントマイム)』(1964-1966年)や『House by the River(川沿いの家)』(1964-2010年)です。ジヴィジンスカはこのシリーズで、生まれ故郷での彼女や愛する人たちの日常生活を撮影しました。彼女の写真はフォトクラブでは通例の美学にさえ反しており、多くの点が異なっていました。まず、彼女は技術的な正確さやピントを合わせることを放棄し、さまざまなぼかし、光の実験、二重露光、モンタージュを好みました。そして、当時の芸術では女性や裸体を典型的な男性異性愛者の視点から見る傾向がありましたが、(4) ジヴィジンスカは女性を非常に直接的で率直な、親密な視点から捉え、自身もしばしば被写体になったのです。しかし、「リガの若い女性がそのような写真を展示して理解されることを期待できる制度的枠組みや知的文脈はなかった。ジヴィジンスカは写真という媒体が現実を捉えて非日常化する可能性に対する彼女自身の興奮に煽られて、10年間制作を続けたのかもしれない」(5) と写真史家でもある娘のアリス・ティーフェンターレは述べています。今日、ジヴィジンスカの遺したアーカイブは豊かで多様な研究対象となっています。
ジヴィジンスカと並んで、フォトクラブ・リガに在籍した数少ない女性の一人がマーラ・ブラフマナ(1944年)です。彼女は生涯の大半を写真に費やし、「作品を箱に収め」、自分のスタイルが当時受け入れられていないことを冷静に受け入れていました。彼女の手法はドキュメンタリー・スタイルに近いものであり、リガの街角の風景や市場の周囲、そこで出会った人々に関心を寄せています。また、1960年代から1970年代にかけてのボヘミアンシーンにも身を置き、アーティストやイベントを撮影しました。この写真アーカイブの価値は、2002年にブラフマナの展覧会『The City of My Youth(我が青春の街)』が開催されたときに初めて認識されました。「ブラフマナは、公式見解である嘘のプロパガンダとも、過剰に美化された写真芸術とも異なる現実を見ていた。その現実に従うことで、彼女は、最初は不評だったにせよ、かなり意識的に個性的な表現を作り出した。」(6) と、美術評論家のビリニャス・ヴェージュは述べています。ブラフマナもジヴィジンスカも、そして後に他の写真家たちも、シリーズ写真を作り始めました。これは、1枚の写真が独立した芸術作品であるという、フォトクラブにおける通常の原則とは異なる変化でした。1枚の独立した写真は、一連の作品において表現される世界認識という表現に取って代わられたのです。
アンドレス・グランツ(1955年)の主な師であり権威であったのは、ラトビアにおける主観的ドキュメンタリーの先駆者、エゴンス・スプリス(1931-1990年)でした。1980年代、グランツはこの主観的ドキュメンタリーの方向性を継続し、"A "と呼ばれる非公式のアーティストグループを結成しました。グループの中心メンバーは、インタ・ローカ、ヴァルツ・クレインズ、マーティンス・ゼルメニス、そしてグヴィドー・カヨンスとグランツです。志を同じくするこれらの写真家たちは、ラトビア写真の「ニューウェーブ」とも呼ばれています。「ニューウェーブのアプローチは、ドキュメンタリー写真をベースとし、その主張する真実性を、開放性と直接性というグラスノスチ(ロシア語で情報公開を意味する)レトリックに一致させていました。このドキュメンタリーのイメージは、フォトクラブの確立された絵画的美学に対して明確に対立したものでした」(7) と前述のティーフェンターレは述べています。ゼルメニスは、グランツが、多くのサロン写真家が自らをアーティストと称していたのとは異なり、自らを作者と呼んでいたと振り返っています。彼によれば、グランツは作品と自分自身の間に距離を置くためにそうしたのだというのです。(8)
グランツは、あらゆる演出を否定し、常に撮影のチャンスを「待つ」観察者です。彼の作品には、バランスの取れた落ち着きがあり、完全に中立的ながらも周囲の世界に没入するような視点を持っています。美術史家のライマ・スラヴァは、これを「瞬間の神聖さ、時に不吉な陰鬱さをもたらすある種の垂直に降り注ぐ光のようなもの」(9) と表現しています。アンリ・カルティエ=ブレッソンの「decisive moment(決定的瞬間)」の存在や、ロラン・バルトの「studium(ストゥディウム=一般的な関心)」と「punctum(プングトゥム=小さな裂け目、ストゥディウムを乱すもの)」の概念が、グランツの写真の3層あるいはピラミッド構造の定義と関連しているというカーリス・ヴェールの考察 (10) には頷けるものがあります。その底辺にあるのは情報的な、あるいはドキュメンタリー的な層であり、次に隠喩的な、あるいは象徴的な層、そして頂点にあるのは、理想的であり、不可解である、暗示的な層なのです。
写真史家のパメラ・M・ブラウンは、魔術的リアリズムのプリズムを通してグランツの写真を見ることを提案しています。彼の視覚言語は、1枚の写真の中に2つ(またはそれ以上)のイメージを捉え、その間に関係性と複数の意味を浮かび上がらせることを特徴としているのです。「オブジェクトの目的はただ1つ、その間、その背景、そしてその上の意味を強調することです。」(11) オブジェクト間のこの関係はまた、時代を超越した、アイデアのレベルでの考察にもつながります。その好例が『Jūrmala. Bulduri. 1987(ユールマラ ブルドゥリ *共に地名 1987年)』や『Museum. Bauska. 1986(博物館 バウスカ1986年)』の写真で、どちらも『Around Latvia(ラトビアを巡る)』シリーズに属しています。これらの現実的な要素は、ある組み合わせによって、解釈の余地がある一連の連想を生み出します。しかし、これは1984年から1990年代半ばというラトビアの歴史における特定の時期、ソ連の束縛がゆっくりと、しかし確実に崩壊し、ラトビアが自由で独立した国となった時期であります。ライマ・スラヴァの言葉を借りれば、「不可逆的に過ぎ去った時間は、あらゆるものの激変を伴う[...]。しかし、変わらないものが残る-それは、動くこと、喜ぶこと、熟考すること、獲得すること、楽しむこと、つまり生きることへの人間の欲望である。」(12)
グヴィドー・カヨンス(1955)もまた、20世紀のソビエト・ラトビアの日常風景を撮影しています。しかし、その手法はまったく異なっているのです。主に撮影したのは都市の写真で、それは当時の様々な兆候に満ちており、非常に繊細な皮肉な視点が感じられます。「その時代はあまりにもおかしなことだらけで、気づかずにはいられなかった。奇妙なことや逆説的なことがいたるところにあったんだ。」(13) とカヨンス自身が述べています。たとえ写真を見る人がソヴィエトのアイコンや歴史的背景に詳しくなくても、カヨンスは人々が環境から疎外されている様子、権力の公式な表象(スローガン、ポスター、都市の人物像など)と、それらが作り出したみすぼらしい世界とのコントラストを目に見えるものにしています。(14) カヨンスの写真に登場する人々は、たしかに都市環境の構成要素ではありますが、人々が実際に内部でどのように感じているかを描き出すことに成功した彼のような写真家は稀です。そして1989年8月23日、団結の力の頂点とも言えるバルト三国の連携行動が起こりました。人間の鎖です。ラトビア領内でこれらの出来事を撮影した多くの人々の一人が、経験豊富な報道写真家ン、アイヴァース・リアピンシュ(1953年)です。彼は偶然にも、ヘリコプターからこの出来事を撮影する機会を得た数少ない人々の一人でした。リアピンシュは次のように振り返っています。「霞のようなものが、モミの木と丘の間に長い線のように立ち上っていた。すべてが地平線までずっと動いていた。それは現実離れしたものに思えた。まるで巨大な動物が眠っているように、大地が呼吸をしているように感じられた。そしてこの大地を横切っていたのは、凍りついた蟻の行列だった。後になって、なぜそれが現実離れしたものに感じられたのかがわかった。通常は逆なのに、大地は静止していて、道が動いているんだ。」(15)
ヒューマニスト:人間中心主義写真という用語は、ラトビアの写真史においてあまり使われませんが、1960年代から1990年代にかけての写真の発展を貫く衝動を的確に表しています。それは、写真における形式的な表現手段においても、メッセージにおいても、自由を追求することであります。さらに、このプロセスは、国自体も自由を勝ち取った時期と重なります。グナーズ・ビンデ、ゼンタ・ジヴィジンスカ、マーラ・ブラフマナ、アンドレス・グランツ。グヴィドー・カヨンス、アイヴァース・リアピンシュの写真は、人生という大きな流れの中で、人間の日常の小さな瞬間を語り続け、私たちにそれらを思い起こさせてくれるのです。
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