我が祖国——土門とマツィヤウスカスの二人称リアリズム

シンヤB

テンプル大学准教授(日本)

私は日本人写真家で、さらに、アメリカの大学でも写真を教えていて、欧米と日本の写真文化比較研究をしている。そんな私に、Human Baltic 展のために日本人写真家を選んで紹介記事を書いた上で、バルト諸国の写真家と比べてほしいと依頼があった。

時代性を考え日本人写真家は1960年代の『プロヴォーク』(1–3号、プロヴォーク社、1968–69年)に焦点をあてると良いのかもしれないと最初は思う。しかし、バルト諸国の芸術写真はソビエトの支配下で言論の自由を制限された人々が写真を表現手段として使うようになったことから始まり、その写真群は芸術的表現であるのはもちろん、時間が経つにつれて社会的・歴史的にも重要な記録となっていったことを考えると、土門拳さんの写真に通ずるところが多いと考えた。土門は、大胆なリアリズム論で知られており、「モチーフとカメラの直結」など論争の的にもなった方法論で戦後日本の写真文化を牽引した写真家の一人である。紙面の関係で、写真雑誌『カメラ』『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』だけを紹介していくが、『文楽』『室生寺』など他にも素晴らしい写真集が多くあるので、気になった方は自身で探していただければ幸いだ。

土門拳(日本 1909–1990)《セルフポートレイト(1958年11月発行の「サンケイカメラ」誌に掲載)》/ 1958年 写真提供:土門拳記念館



写真雑誌『カメラ』

『カメラ』は1921年4月に創刊された月刊誌で、プロ作家の作品、月例の投稿写真コンテスト、カメラや暗室技術の記事という現在のカメラ雑誌の基本スタイルを確立した雑誌である。戦前と戦後の日本写真文化に大きい影響を与えたが1956年8月号で廃刊になった。戦前からプロカメラマンとして活躍していた土門は1950年1月号から月例コンテスト審査員に指名され、コンテストの批評として書いた文章が沢山残っている。批評の中で彼は「絶対非演出の絶対スナップ」を提唱し、カメラと被写体は直結すべきというドキュメンタリー論を説いていく。この哲学は一部の若い世代の写真家のインスピレーションとなり、リアリズム運動として知られるようになった。しかし、単純なリアリズムだけでなくテーマ性を実践的に解決していく「第2期リアリズム」に進んでいく必要を感じ、土門は1954年に「第1期リアリズム」の終焉を宣言し、自らもテーマ性が高い撮影を始めるようになる。


ヒロシマ

日本の広島への原爆投下は、武力紛争において核兵器が初めて使用された世界史における重要な出来事である。リトルボーイと呼ばれた爆弾は、1945年8月6日にB-29爆撃機エノラ・ゲイによって投下され、街の上空600メートルで爆発し、広範囲にわたって前例のない破壊をもたらした。原子兵器の使用は、即時的および長期的な結果をもたらす。日本は1945年8月15日に降伏を宣言し、第二次世界大戦が終結するが、原爆は甚大な人的被害を引き起こした。35万人が住んでいた広島市の10万人が死亡したとされ、さらに多くの人が時間の経過とともに放射線関連の病気で命を落とすことになる。原爆投下から10年以上経った1957年に土門は広島を訪問し、まだ終わらぬ戦争の傷に衝撃を受け、住民の苦難を捉えた痛切なシリーズの撮影を始める。土門は『ヒロシマ』(研光社、1958年)の中で、「僕などは『ヒロシマ』を忘れていた というより、実ははじめから 何も知ってはいなかったのだ。今日もなお『ヒロシマ』は生きていた。それを 僕たちは知らなすぎた。いや正確には、知らされなさすぎたのである」と振り返る。土門のアプローチは深く共感的で、写真を通し、現在も続く悲劇の遺産を提示している。

土門拳(日本 1909–1990)《原爆病院の患者たち 金時さん(左顔面と両手に被爆した少女) 左顔面醜形瘢痕植皮手術(『ヒロシマ』より)》/ 1957年 写真提供:土門拳記念館



筑豊のこどもたち

日本でも1950年代後半に石炭から石油エネルギーへの転換が起きていた。石炭の生産地ではそれまで産業の基盤であった炭鉱が次々と閉山に至り多くの炭鉱労働者が失業する。土門拳は1959年12月に筑豊で失業した炭鉱労働者とその家族の生活を取材し、その闘争と生活を前面に押し出す写真作品を生み出した。翌年1月に写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店、1960年)を出版し、誰でもが買いやすい定価100円の写真集はベストセラーとなり、ルポルタージュの名作として社会的に大きな反響をもたらした。土門は本の中で、写真集にもいろいろな形式があるべきだと言い、「僕は、この写真集だけは美しいグラビア用紙でではなく、ザラ紙で作りたかった。丸めて手に持てる、そんな親しみを、見る人々に伝えかった」と述べている。

土門拳(日本 1909–1990)《るみえちゃん(『筑豊のこどもたち』より)》/ 1959年 写真提供:土門拳記念館


「侘び寂び」と「もののあわれ」

土門が描いた世界観を理解するには、日本の文化と芸術に影響を与えている思想を理解することも必要だろう。「侘び寂び」(不完全さと移ろいの美しさ)や「もののあわれ」(はかないものへの感受性)といった概念は、美的要素やテーマ的要素を形作る上で重要な役割を果たしていて、こういった日本の哲学は、普遍的な人間の経験である無常と美しさを表している。『ヒロシマ』そして『筑豊のこどもたち』のどちらの写真集にも、我々が生きる世界の不完全さと、変わり続ける祖国への哀愁が刻まれている。そして、そこには、生と死がいつも同居していて、はかないものへの感受性をも見ることができるのである。

アレクサンドラス・マツィヤウスカス

バルト諸国の写真家からは、アレクサンドラス・マツィヤウスカスを選ぶことにした。土門もマツィヤウスカスも祖国を代表するドキュメンタリー写真家であり、二人の接点を解説したいと思ったからだ。マツィヤウスカスのアメリカで出版された写真集『My Lithuania(私のリトアニア)』(Thames and Hudson Inc.、1991年)を私は持っている。アメリカの古本屋で購入したものだ。その中に収録されている「Village Markets(村の市場)」シリーズは、Human Baltic 展にも含まれている。この作品は1967年から1973年の間に撮影されたリトアニアの田舎市場のドキュメンタリーである。土門が提唱した「モチーフとカメラの直結」を感じられる作品で、私がこの本を購入した理由も、そんな力強い写真的実在に魅せられたからであった。


二人称リアリズム

土門とマツィヤウスカスはどちらも報道カメラマンの経験があり、報道的な三人称視点が、その後テーマ性を重視した二人称リアリズムへとシフトした写真家である。その変化は演劇的な視点が作品に混ざっていくことを意味している。一時期に土門は「絶対非演出」を掲げていたが、1958年7月号の雑誌『フォトアート』に掲載された「座談会 『ヒロシマ』をめぐって」で、「それははっきりした計算の上で意図したことなんですよ。手術を受ける被爆者をなおそうと血みどろになっている医者や看護婦と一緒になって、原爆の爪痕を取り除く人間そのものになる。そこへ持って行くためにカメラアングルもカメラポジションも考えているわけで、それ以外にはないわけですよ。二人称の立場、医者の目、看護婦の目にしたいと思ってしか、絶対写真を撮っていないわけですよ」と述べている。『ヒロシマ』の参考写真として掲載した《金時さん》の写真は、二人称の「演出」がされていたことが分かる。《るみえちゃん》も、父親の目線と考えれば二人称といえる。《セルフポートレイト》も読者の目線を計算していたのであれば、これもまた二人称となっていく。

マツィヤウスカスが取材した田舎市場の人々はとても新鮮に生き生きと写真に収められていて、土門が好んでいた方向性の写真である。マツィヤウスカスは旅行中にウテナの市場に買い物に出かけたことが人生の転機になり、「突然、私がリトアニア中を探し回っていた人々が皆、子供や所有物、動物、悪癖、優しい心、そして顔を持って、ここに一堂に会していることに気づいたのです。なんという顔ぶれでしょう!この市場の広場には、仕事と喜び、買い物と売り物の儀式、買い手が購入したものを使う時に決して忘れることのない売り手の機知に富んだおしゃべりなど、すべてがありました」と、写真集の解説には彼の驚きが記され、さらに「実際、未来の写真作品の登場人物となるかもしれない人々の観察を始めると、市場を訪れるたびに、以前に彼らに会ったことがあるという確信が強まっていきました。(略)彼が誰か分かりました。私の亡き祖父の化身だったのです」と述べられていて、彼自身も、田舎市場の人々を、夏休みに一緒に過ごした祖父母の生まれ変わりのように感じていたことが伺える。写真集のタイトルに「私」が使われているのも、彼が「リトアニア人のあなたと私」という二人称構造のドキュメンタリーを意識していたためと考えている。二人称リアリズムの世界観は独特な写真的実在を作り出し、市場の人々が描く動線と躍動感は生々しい舞台作品を見ているようだ。土門のヒロシマが「医者(私)と患者」、マツィヤウスカスの田舎市場は「私と田舎市場の人々(祖父)」で、どちらも二人称リアリズムの構造を持っていたのだ。

アレクサンドラス・マツィヤウスカスシリーズ「農村市場」より


マツィヤウスカスの田舎市場の写真には、人間の人生と動物の生死が同居してることも書いておきたい。そこには、人間を含めた「はかないもの」への感受性が見て取れるし、もののあわれにつながる情景が写されている。土門と同じく、これらの写真群は普遍的な人間の経験である無常と美しさを表していたのだ。バルト諸国の写真家の作品は、圧政と闘争、そして、独立と変革の時代へと、彼らの不屈の歴史と精神を物語り、土門の作品も戦後日本の重要な歴史資料であり、日本人とは何であるのか、そして、人間とは何であるのかを現在も私たちに問い続けている。出会うことがなかった二人の間にある写真という強い繋がりに敬意を表して、この文章をひとまずは終わりにしたい。






シンヤB

写真家、アーティスト、教育者、ドラマトゥルク。東京都世田谷区生まれ。アメリカの美術大学大学院を卒業。テンプル大学のジャパンキャンパスにアート学科を立ち上げ、現在も教壇に立つ。個展に「Things I see, Do Away」 (Gallery Art Space、1999年)「Afterwords, Me」 (現代ハイツ、2013年)「作例 -- よくある質問と消えていく写真の言葉 」(Place M、2022年)などがある。舞踏作品「不知(don’t know)」の演出を手がけ、軽井沢フォトフェスト、RICOH THETA 公式写真展の審査員を務める。京都のPURPLEや日本の大学で「写真は可能か」と題したレクチャーを開催している。

その他のエッセイ :
我が祖国——土門とマツィヤウスカスの二人称リアリズム

シンヤB

テンプル大学准教授(日本)

私は日本人写真家で、さらに、アメリカの大学でも写真を教えていて、欧米と日本の写真文化比較研究をしている。そんな私に、Human Baltic 展のために日本人写真家を選んで紹介記事を書いた上で、バルト諸国の写真家と比べてほしいと依頼があった。

時代性を考え日本人写真家は1960年代の『プロヴォーク』(1–3号、プロヴォーク社、1968–69年)に焦点をあてると良いのかもしれないと最初は思う。しかし、バルト諸国の芸術写真はソビエトの支配下で言論の自由を制限された人々が写真を表現手段として使うようになったことから始まり、その写真群は芸術的表現であるのはもちろん、時間が経つにつれて社会的・歴史的にも重要な記録となっていったことを考えると、土門拳さんの写真に通ずるところが多いと考えた。土門は、大胆なリアリズム論で知られており、「モチーフとカメラの直結」など論争の的にもなった方法論で戦後日本の写真文化を牽引した写真家の一人である。紙面の関係で、写真雑誌『カメラ』『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』だけを紹介していくが、『文楽』『室生寺』など他にも素晴らしい写真集が多くあるので、気になった方は自身で探していただければ幸いだ。

土門拳(日本 1909–1990)《セルフポートレイト(1958年11月発行の「サンケイカメラ」誌に掲載)》/ 1958年 写真提供:土門拳記念館



写真雑誌『カメラ』

『カメラ』は1921年4月に創刊された月刊誌で、プロ作家の作品、月例の投稿写真コンテスト、カメラや暗室技術の記事という現在のカメラ雑誌の基本スタイルを確立した雑誌である。戦前と戦後の日本写真文化に大きい影響を与えたが1956年8月号で廃刊になった。戦前からプロカメラマンとして活躍していた土門は1950年1月号から月例コンテスト審査員に指名され、コンテストの批評として書いた文章が沢山残っている。批評の中で彼は「絶対非演出の絶対スナップ」を提唱し、カメラと被写体は直結すべきというドキュメンタリー論を説いていく。この哲学は一部の若い世代の写真家のインスピレーションとなり、リアリズム運動として知られるようになった。しかし、単純なリアリズムだけでなくテーマ性を実践的に解決していく「第2期リアリズム」に進んでいく必要を感じ、土門は1954年に「第1期リアリズム」の終焉を宣言し、自らもテーマ性が高い撮影を始めるようになる。


ヒロシマ

日本の広島への原爆投下は、武力紛争において核兵器が初めて使用された世界史における重要な出来事である。リトルボーイと呼ばれた爆弾は、1945年8月6日にB-29爆撃機エノラ・ゲイによって投下され、街の上空600メートルで爆発し、広範囲にわたって前例のない破壊をもたらした。原子兵器の使用は、即時的および長期的な結果をもたらす。日本は1945年8月15日に降伏を宣言し、第二次世界大戦が終結するが、原爆は甚大な人的被害を引き起こした。35万人が住んでいた広島市の10万人が死亡したとされ、さらに多くの人が時間の経過とともに放射線関連の病気で命を落とすことになる。原爆投下から10年以上経った1957年に土門は広島を訪問し、まだ終わらぬ戦争の傷に衝撃を受け、住民の苦難を捉えた痛切なシリーズの撮影を始める。土門は『ヒロシマ』(研光社、1958年)の中で、「僕などは『ヒロシマ』を忘れていた というより、実ははじめから 何も知ってはいなかったのだ。今日もなお『ヒロシマ』は生きていた。それを 僕たちは知らなすぎた。いや正確には、知らされなさすぎたのである」と振り返る。土門のアプローチは深く共感的で、写真を通し、現在も続く悲劇の遺産を提示している。

土門拳(日本 1909–1990)《原爆病院の患者たち 金時さん(左顔面と両手に被爆した少女) 左顔面醜形瘢痕植皮手術(『ヒロシマ』より)》/ 1957年 写真提供:土門拳記念館



筑豊のこどもたち

日本でも1950年代後半に石炭から石油エネルギーへの転換が起きていた。石炭の生産地ではそれまで産業の基盤であった炭鉱が次々と閉山に至り多くの炭鉱労働者が失業する。土門拳は1959年12月に筑豊で失業した炭鉱労働者とその家族の生活を取材し、その闘争と生活を前面に押し出す写真作品を生み出した。翌年1月に写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店、1960年)を出版し、誰でもが買いやすい定価100円の写真集はベストセラーとなり、ルポルタージュの名作として社会的に大きな反響をもたらした。土門は本の中で、写真集にもいろいろな形式があるべきだと言い、「僕は、この写真集だけは美しいグラビア用紙でではなく、ザラ紙で作りたかった。丸めて手に持てる、そんな親しみを、見る人々に伝えかった」と述べている。

土門拳(日本 1909–1990)《るみえちゃん(『筑豊のこどもたち』より)》/ 1959年 写真提供:土門拳記念館


「侘び寂び」と「もののあわれ」

土門が描いた世界観を理解するには、日本の文化と芸術に影響を与えている思想を理解することも必要だろう。「侘び寂び」(不完全さと移ろいの美しさ)や「もののあわれ」(はかないものへの感受性)といった概念は、美的要素やテーマ的要素を形作る上で重要な役割を果たしていて、こういった日本の哲学は、普遍的な人間の経験である無常と美しさを表している。『ヒロシマ』そして『筑豊のこどもたち』のどちらの写真集にも、我々が生きる世界の不完全さと、変わり続ける祖国への哀愁が刻まれている。そして、そこには、生と死がいつも同居していて、はかないものへの感受性をも見ることができるのである。

アレクサンドラス・マツィヤウスカス

バルト諸国の写真家からは、アレクサンドラス・マツィヤウスカスを選ぶことにした。土門もマツィヤウスカスも祖国を代表するドキュメンタリー写真家であり、二人の接点を解説したいと思ったからだ。マツィヤウスカスのアメリカで出版された写真集『My Lithuania(私のリトアニア)』(Thames and Hudson Inc.、1991年)を私は持っている。アメリカの古本屋で購入したものだ。その中に収録されている「Village Markets(村の市場)」シリーズは、Human Baltic 展にも含まれている。この作品は1967年から1973年の間に撮影されたリトアニアの田舎市場のドキュメンタリーである。土門が提唱した「モチーフとカメラの直結」を感じられる作品で、私がこの本を購入した理由も、そんな力強い写真的実在に魅せられたからであった。


二人称リアリズム

土門とマツィヤウスカスはどちらも報道カメラマンの経験があり、報道的な三人称視点が、その後テーマ性を重視した二人称リアリズムへとシフトした写真家である。その変化は演劇的な視点が作品に混ざっていくことを意味している。一時期に土門は「絶対非演出」を掲げていたが、1958年7月号の雑誌『フォトアート』に掲載された「座談会 『ヒロシマ』をめぐって」で、「それははっきりした計算の上で意図したことなんですよ。手術を受ける被爆者をなおそうと血みどろになっている医者や看護婦と一緒になって、原爆の爪痕を取り除く人間そのものになる。そこへ持って行くためにカメラアングルもカメラポジションも考えているわけで、それ以外にはないわけですよ。二人称の立場、医者の目、看護婦の目にしたいと思ってしか、絶対写真を撮っていないわけですよ」と述べている。『ヒロシマ』の参考写真として掲載した《金時さん》の写真は、二人称の「演出」がされていたことが分かる。《るみえちゃん》も、父親の目線と考えれば二人称といえる。《セルフポートレイト》も読者の目線を計算していたのであれば、これもまた二人称となっていく。

マツィヤウスカスが取材した田舎市場の人々はとても新鮮に生き生きと写真に収められていて、土門が好んでいた方向性の写真である。マツィヤウスカスは旅行中にウテナの市場に買い物に出かけたことが人生の転機になり、「突然、私がリトアニア中を探し回っていた人々が皆、子供や所有物、動物、悪癖、優しい心、そして顔を持って、ここに一堂に会していることに気づいたのです。なんという顔ぶれでしょう!この市場の広場には、仕事と喜び、買い物と売り物の儀式、買い手が購入したものを使う時に決して忘れることのない売り手の機知に富んだおしゃべりなど、すべてがありました」と、写真集の解説には彼の驚きが記され、さらに「実際、未来の写真作品の登場人物となるかもしれない人々の観察を始めると、市場を訪れるたびに、以前に彼らに会ったことがあるという確信が強まっていきました。(略)彼が誰か分かりました。私の亡き祖父の化身だったのです」と述べられていて、彼自身も、田舎市場の人々を、夏休みに一緒に過ごした祖父母の生まれ変わりのように感じていたことが伺える。写真集のタイトルに「私」が使われているのも、彼が「リトアニア人のあなたと私」という二人称構造のドキュメンタリーを意識していたためと考えている。二人称リアリズムの世界観は独特な写真的実在を作り出し、市場の人々が描く動線と躍動感は生々しい舞台作品を見ているようだ。土門のヒロシマが「医者(私)と患者」、マツィヤウスカスの田舎市場は「私と田舎市場の人々(祖父)」で、どちらも二人称リアリズムの構造を持っていたのだ。

アレクサンドラス・マツィヤウスカスシリーズ「農村市場」より


マツィヤウスカスの田舎市場の写真には、人間の人生と動物の生死が同居してることも書いておきたい。そこには、人間を含めた「はかないもの」への感受性が見て取れるし、もののあわれにつながる情景が写されている。土門と同じく、これらの写真群は普遍的な人間の経験である無常と美しさを表していたのだ。バルト諸国の写真家の作品は、圧政と闘争、そして、独立と変革の時代へと、彼らの不屈の歴史と精神を物語り、土門の作品も戦後日本の重要な歴史資料であり、日本人とは何であるのか、そして、人間とは何であるのかを現在も私たちに問い続けている。出会うことがなかった二人の間にある写真という強い繋がりに敬意を表して、この文章をひとまずは終わりにしたい。






シンヤB

写真家、アーティスト、教育者、ドラマトゥルク。東京都世田谷区生まれ。アメリカの美術大学大学院を卒業。テンプル大学のジャパンキャンパスにアート学科を立ち上げ、現在も教壇に立つ。個展に「Things I see, Do Away」 (Gallery Art Space、1999年)「Afterwords, Me」 (現代ハイツ、2013年)「作例 -- よくある質問と消えていく写真の言葉 」(Place M、2022年)などがある。舞踏作品「不知(don’t know)」の演出を手がけ、軽井沢フォトフェスト、RICOH THETA 公式写真展の審査員を務める。京都のPURPLEや日本の大学で「写真は可能か」と題したレクチャーを開催している。

その他のエッセイ :
我が祖国——土門とマツィヤウスカスの二人称リアリズム

シンヤB

テンプル大学准教授(日本)

私は日本人写真家で、さらに、アメリカの大学でも写真を教えていて、欧米と日本の写真文化比較研究をしている。そんな私に、Human Baltic 展のために日本人写真家を選んで紹介記事を書いた上で、バルト諸国の写真家と比べてほしいと依頼があった。

時代性を考え日本人写真家は1960年代の『プロヴォーク』(1–3号、プロヴォーク社、1968–69年)に焦点をあてると良いのかもしれないと最初は思う。しかし、バルト諸国の芸術写真はソビエトの支配下で言論の自由を制限された人々が写真を表現手段として使うようになったことから始まり、その写真群は芸術的表現であるのはもちろん、時間が経つにつれて社会的・歴史的にも重要な記録となっていったことを考えると、土門拳さんの写真に通ずるところが多いと考えた。土門は、大胆なリアリズム論で知られており、「モチーフとカメラの直結」など論争の的にもなった方法論で戦後日本の写真文化を牽引した写真家の一人である。紙面の関係で、写真雑誌『カメラ』『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』だけを紹介していくが、『文楽』『室生寺』など他にも素晴らしい写真集が多くあるので、気になった方は自身で探していただければ幸いだ。

土門拳(日本 1909–1990)《セルフポートレイト(1958年11月発行の「サンケイカメラ」誌に掲載)》/ 1958年 写真提供:土門拳記念館



写真雑誌『カメラ』

『カメラ』は1921年4月に創刊された月刊誌で、プロ作家の作品、月例の投稿写真コンテスト、カメラや暗室技術の記事という現在のカメラ雑誌の基本スタイルを確立した雑誌である。戦前と戦後の日本写真文化に大きい影響を与えたが1956年8月号で廃刊になった。戦前からプロカメラマンとして活躍していた土門は1950年1月号から月例コンテスト審査員に指名され、コンテストの批評として書いた文章が沢山残っている。批評の中で彼は「絶対非演出の絶対スナップ」を提唱し、カメラと被写体は直結すべきというドキュメンタリー論を説いていく。この哲学は一部の若い世代の写真家のインスピレーションとなり、リアリズム運動として知られるようになった。しかし、単純なリアリズムだけでなくテーマ性を実践的に解決していく「第2期リアリズム」に進んでいく必要を感じ、土門は1954年に「第1期リアリズム」の終焉を宣言し、自らもテーマ性が高い撮影を始めるようになる。


ヒロシマ

日本の広島への原爆投下は、武力紛争において核兵器が初めて使用された世界史における重要な出来事である。リトルボーイと呼ばれた爆弾は、1945年8月6日にB-29爆撃機エノラ・ゲイによって投下され、街の上空600メートルで爆発し、広範囲にわたって前例のない破壊をもたらした。原子兵器の使用は、即時的および長期的な結果をもたらす。日本は1945年8月15日に降伏を宣言し、第二次世界大戦が終結するが、原爆は甚大な人的被害を引き起こした。35万人が住んでいた広島市の10万人が死亡したとされ、さらに多くの人が時間の経過とともに放射線関連の病気で命を落とすことになる。原爆投下から10年以上経った1957年に土門は広島を訪問し、まだ終わらぬ戦争の傷に衝撃を受け、住民の苦難を捉えた痛切なシリーズの撮影を始める。土門は『ヒロシマ』(研光社、1958年)の中で、「僕などは『ヒロシマ』を忘れていた というより、実ははじめから 何も知ってはいなかったのだ。今日もなお『ヒロシマ』は生きていた。それを 僕たちは知らなすぎた。いや正確には、知らされなさすぎたのである」と振り返る。土門のアプローチは深く共感的で、写真を通し、現在も続く悲劇の遺産を提示している。

土門拳(日本 1909–1990)《原爆病院の患者たち 金時さん(左顔面と両手に被爆した少女) 左顔面醜形瘢痕植皮手術(『ヒロシマ』より)》/ 1957年 写真提供:土門拳記念館



筑豊のこどもたち

日本でも1950年代後半に石炭から石油エネルギーへの転換が起きていた。石炭の生産地ではそれまで産業の基盤であった炭鉱が次々と閉山に至り多くの炭鉱労働者が失業する。土門拳は1959年12月に筑豊で失業した炭鉱労働者とその家族の生活を取材し、その闘争と生活を前面に押し出す写真作品を生み出した。翌年1月に写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店、1960年)を出版し、誰でもが買いやすい定価100円の写真集はベストセラーとなり、ルポルタージュの名作として社会的に大きな反響をもたらした。土門は本の中で、写真集にもいろいろな形式があるべきだと言い、「僕は、この写真集だけは美しいグラビア用紙でではなく、ザラ紙で作りたかった。丸めて手に持てる、そんな親しみを、見る人々に伝えかった」と述べている。

土門拳(日本 1909–1990)《るみえちゃん(『筑豊のこどもたち』より)》/ 1959年 写真提供:土門拳記念館


「侘び寂び」と「もののあわれ」

土門が描いた世界観を理解するには、日本の文化と芸術に影響を与えている思想を理解することも必要だろう。「侘び寂び」(不完全さと移ろいの美しさ)や「もののあわれ」(はかないものへの感受性)といった概念は、美的要素やテーマ的要素を形作る上で重要な役割を果たしていて、こういった日本の哲学は、普遍的な人間の経験である無常と美しさを表している。『ヒロシマ』そして『筑豊のこどもたち』のどちらの写真集にも、我々が生きる世界の不完全さと、変わり続ける祖国への哀愁が刻まれている。そして、そこには、生と死がいつも同居していて、はかないものへの感受性をも見ることができるのである。

アレクサンドラス・マツィヤウスカス

バルト諸国の写真家からは、アレクサンドラス・マツィヤウスカスを選ぶことにした。土門もマツィヤウスカスも祖国を代表するドキュメンタリー写真家であり、二人の接点を解説したいと思ったからだ。マツィヤウスカスのアメリカで出版された写真集『My Lithuania(私のリトアニア)』(Thames and Hudson Inc.、1991年)を私は持っている。アメリカの古本屋で購入したものだ。その中に収録されている「Village Markets(村の市場)」シリーズは、Human Baltic 展にも含まれている。この作品は1967年から1973年の間に撮影されたリトアニアの田舎市場のドキュメンタリーである。土門が提唱した「モチーフとカメラの直結」を感じられる作品で、私がこの本を購入した理由も、そんな力強い写真的実在に魅せられたからであった。


二人称リアリズム

土門とマツィヤウスカスはどちらも報道カメラマンの経験があり、報道的な三人称視点が、その後テーマ性を重視した二人称リアリズムへとシフトした写真家である。その変化は演劇的な視点が作品に混ざっていくことを意味している。一時期に土門は「絶対非演出」を掲げていたが、1958年7月号の雑誌『フォトアート』に掲載された「座談会 『ヒロシマ』をめぐって」で、「それははっきりした計算の上で意図したことなんですよ。手術を受ける被爆者をなおそうと血みどろになっている医者や看護婦と一緒になって、原爆の爪痕を取り除く人間そのものになる。そこへ持って行くためにカメラアングルもカメラポジションも考えているわけで、それ以外にはないわけですよ。二人称の立場、医者の目、看護婦の目にしたいと思ってしか、絶対写真を撮っていないわけですよ」と述べている。『ヒロシマ』の参考写真として掲載した《金時さん》の写真は、二人称の「演出」がされていたことが分かる。《るみえちゃん》も、父親の目線と考えれば二人称といえる。《セルフポートレイト》も読者の目線を計算していたのであれば、これもまた二人称となっていく。

マツィヤウスカスが取材した田舎市場の人々はとても新鮮に生き生きと写真に収められていて、土門が好んでいた方向性の写真である。マツィヤウスカスは旅行中にウテナの市場に買い物に出かけたことが人生の転機になり、「突然、私がリトアニア中を探し回っていた人々が皆、子供や所有物、動物、悪癖、優しい心、そして顔を持って、ここに一堂に会していることに気づいたのです。なんという顔ぶれでしょう!この市場の広場には、仕事と喜び、買い物と売り物の儀式、買い手が購入したものを使う時に決して忘れることのない売り手の機知に富んだおしゃべりなど、すべてがありました」と、写真集の解説には彼の驚きが記され、さらに「実際、未来の写真作品の登場人物となるかもしれない人々の観察を始めると、市場を訪れるたびに、以前に彼らに会ったことがあるという確信が強まっていきました。(略)彼が誰か分かりました。私の亡き祖父の化身だったのです」と述べられていて、彼自身も、田舎市場の人々を、夏休みに一緒に過ごした祖父母の生まれ変わりのように感じていたことが伺える。写真集のタイトルに「私」が使われているのも、彼が「リトアニア人のあなたと私」という二人称構造のドキュメンタリーを意識していたためと考えている。二人称リアリズムの世界観は独特な写真的実在を作り出し、市場の人々が描く動線と躍動感は生々しい舞台作品を見ているようだ。土門のヒロシマが「医者(私)と患者」、マツィヤウスカスの田舎市場は「私と田舎市場の人々(祖父)」で、どちらも二人称リアリズムの構造を持っていたのだ。

アレクサンドラス・マツィヤウスカスシリーズ「農村市場」より


マツィヤウスカスの田舎市場の写真には、人間の人生と動物の生死が同居してることも書いておきたい。そこには、人間を含めた「はかないもの」への感受性が見て取れるし、もののあわれにつながる情景が写されている。土門と同じく、これらの写真群は普遍的な人間の経験である無常と美しさを表していたのだ。バルト諸国の写真家の作品は、圧政と闘争、そして、独立と変革の時代へと、彼らの不屈の歴史と精神を物語り、土門の作品も戦後日本の重要な歴史資料であり、日本人とは何であるのか、そして、人間とは何であるのかを現在も私たちに問い続けている。出会うことがなかった二人の間にある写真という強い繋がりに敬意を表して、この文章をひとまずは終わりにしたい。






シンヤB

写真家、アーティスト、教育者、ドラマトゥルク。東京都世田谷区生まれ。アメリカの美術大学大学院を卒業。テンプル大学のジャパンキャンパスにアート学科を立ち上げ、現在も教壇に立つ。個展に「Things I see, Do Away」 (Gallery Art Space、1999年)「Afterwords, Me」 (現代ハイツ、2013年)「作例 -- よくある質問と消えていく写真の言葉 」(Place M、2022年)などがある。舞踏作品「不知(don’t know)」の演出を手がけ、軽井沢フォトフェスト、RICOH THETA 公式写真展の審査員を務める。京都のPURPLEや日本の大学で「写真は可能か」と題したレクチャーを開催している。

その他のエッセイ :
我が祖国——土門とマツィヤウスカスの二人称リアリズム

シンヤB

テンプル大学准教授(日本)

私は日本人写真家で、さらに、アメリカの大学でも写真を教えていて、欧米と日本の写真文化比較研究をしている。そんな私に、Human Baltic 展のために日本人写真家を選んで紹介記事を書いた上で、バルト諸国の写真家と比べてほしいと依頼があった。

時代性を考え日本人写真家は1960年代の『プロヴォーク』(1–3号、プロヴォーク社、1968–69年)に焦点をあてると良いのかもしれないと最初は思う。しかし、バルト諸国の芸術写真はソビエトの支配下で言論の自由を制限された人々が写真を表現手段として使うようになったことから始まり、その写真群は芸術的表現であるのはもちろん、時間が経つにつれて社会的・歴史的にも重要な記録となっていったことを考えると、土門拳さんの写真に通ずるところが多いと考えた。土門は、大胆なリアリズム論で知られており、「モチーフとカメラの直結」など論争の的にもなった方法論で戦後日本の写真文化を牽引した写真家の一人である。紙面の関係で、写真雑誌『カメラ』『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』だけを紹介していくが、『文楽』『室生寺』など他にも素晴らしい写真集が多くあるので、気になった方は自身で探していただければ幸いだ。

土門拳(日本 1909–1990)《セルフポートレイト(1958年11月発行の「サンケイカメラ」誌に掲載)》/ 1958年 写真提供:土門拳記念館



写真雑誌『カメラ』

『カメラ』は1921年4月に創刊された月刊誌で、プロ作家の作品、月例の投稿写真コンテスト、カメラや暗室技術の記事という現在のカメラ雑誌の基本スタイルを確立した雑誌である。戦前と戦後の日本写真文化に大きい影響を与えたが1956年8月号で廃刊になった。戦前からプロカメラマンとして活躍していた土門は1950年1月号から月例コンテスト審査員に指名され、コンテストの批評として書いた文章が沢山残っている。批評の中で彼は「絶対非演出の絶対スナップ」を提唱し、カメラと被写体は直結すべきというドキュメンタリー論を説いていく。この哲学は一部の若い世代の写真家のインスピレーションとなり、リアリズム運動として知られるようになった。しかし、単純なリアリズムだけでなくテーマ性を実践的に解決していく「第2期リアリズム」に進んでいく必要を感じ、土門は1954年に「第1期リアリズム」の終焉を宣言し、自らもテーマ性が高い撮影を始めるようになる。


ヒロシマ

日本の広島への原爆投下は、武力紛争において核兵器が初めて使用された世界史における重要な出来事である。リトルボーイと呼ばれた爆弾は、1945年8月6日にB-29爆撃機エノラ・ゲイによって投下され、街の上空600メートルで爆発し、広範囲にわたって前例のない破壊をもたらした。原子兵器の使用は、即時的および長期的な結果をもたらす。日本は1945年8月15日に降伏を宣言し、第二次世界大戦が終結するが、原爆は甚大な人的被害を引き起こした。35万人が住んでいた広島市の10万人が死亡したとされ、さらに多くの人が時間の経過とともに放射線関連の病気で命を落とすことになる。原爆投下から10年以上経った1957年に土門は広島を訪問し、まだ終わらぬ戦争の傷に衝撃を受け、住民の苦難を捉えた痛切なシリーズの撮影を始める。土門は『ヒロシマ』(研光社、1958年)の中で、「僕などは『ヒロシマ』を忘れていた というより、実ははじめから 何も知ってはいなかったのだ。今日もなお『ヒロシマ』は生きていた。それを 僕たちは知らなすぎた。いや正確には、知らされなさすぎたのである」と振り返る。土門のアプローチは深く共感的で、写真を通し、現在も続く悲劇の遺産を提示している。

土門拳(日本 1909–1990)《原爆病院の患者たち 金時さん(左顔面と両手に被爆した少女) 左顔面醜形瘢痕植皮手術(『ヒロシマ』より)》/ 1957年 写真提供:土門拳記念館



筑豊のこどもたち

日本でも1950年代後半に石炭から石油エネルギーへの転換が起きていた。石炭の生産地ではそれまで産業の基盤であった炭鉱が次々と閉山に至り多くの炭鉱労働者が失業する。土門拳は1959年12月に筑豊で失業した炭鉱労働者とその家族の生活を取材し、その闘争と生活を前面に押し出す写真作品を生み出した。翌年1月に写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店、1960年)を出版し、誰でもが買いやすい定価100円の写真集はベストセラーとなり、ルポルタージュの名作として社会的に大きな反響をもたらした。土門は本の中で、写真集にもいろいろな形式があるべきだと言い、「僕は、この写真集だけは美しいグラビア用紙でではなく、ザラ紙で作りたかった。丸めて手に持てる、そんな親しみを、見る人々に伝えかった」と述べている。

土門拳(日本 1909–1990)《るみえちゃん(『筑豊のこどもたち』より)》/ 1959年 写真提供:土門拳記念館


「侘び寂び」と「もののあわれ」

土門が描いた世界観を理解するには、日本の文化と芸術に影響を与えている思想を理解することも必要だろう。「侘び寂び」(不完全さと移ろいの美しさ)や「もののあわれ」(はかないものへの感受性)といった概念は、美的要素やテーマ的要素を形作る上で重要な役割を果たしていて、こういった日本の哲学は、普遍的な人間の経験である無常と美しさを表している。『ヒロシマ』そして『筑豊のこどもたち』のどちらの写真集にも、我々が生きる世界の不完全さと、変わり続ける祖国への哀愁が刻まれている。そして、そこには、生と死がいつも同居していて、はかないものへの感受性をも見ることができるのである。

アレクサンドラス・マツィヤウスカス

バルト諸国の写真家からは、アレクサンドラス・マツィヤウスカスを選ぶことにした。土門もマツィヤウスカスも祖国を代表するドキュメンタリー写真家であり、二人の接点を解説したいと思ったからだ。マツィヤウスカスのアメリカで出版された写真集『My Lithuania(私のリトアニア)』(Thames and Hudson Inc.、1991年)を私は持っている。アメリカの古本屋で購入したものだ。その中に収録されている「Village Markets(村の市場)」シリーズは、Human Baltic 展にも含まれている。この作品は1967年から1973年の間に撮影されたリトアニアの田舎市場のドキュメンタリーである。土門が提唱した「モチーフとカメラの直結」を感じられる作品で、私がこの本を購入した理由も、そんな力強い写真的実在に魅せられたからであった。


二人称リアリズム

土門とマツィヤウスカスはどちらも報道カメラマンの経験があり、報道的な三人称視点が、その後テーマ性を重視した二人称リアリズムへとシフトした写真家である。その変化は演劇的な視点が作品に混ざっていくことを意味している。一時期に土門は「絶対非演出」を掲げていたが、1958年7月号の雑誌『フォトアート』に掲載された「座談会 『ヒロシマ』をめぐって」で、「それははっきりした計算の上で意図したことなんですよ。手術を受ける被爆者をなおそうと血みどろになっている医者や看護婦と一緒になって、原爆の爪痕を取り除く人間そのものになる。そこへ持って行くためにカメラアングルもカメラポジションも考えているわけで、それ以外にはないわけですよ。二人称の立場、医者の目、看護婦の目にしたいと思ってしか、絶対写真を撮っていないわけですよ」と述べている。『ヒロシマ』の参考写真として掲載した《金時さん》の写真は、二人称の「演出」がされていたことが分かる。《るみえちゃん》も、父親の目線と考えれば二人称といえる。《セルフポートレイト》も読者の目線を計算していたのであれば、これもまた二人称となっていく。

マツィヤウスカスが取材した田舎市場の人々はとても新鮮に生き生きと写真に収められていて、土門が好んでいた方向性の写真である。マツィヤウスカスは旅行中にウテナの市場に買い物に出かけたことが人生の転機になり、「突然、私がリトアニア中を探し回っていた人々が皆、子供や所有物、動物、悪癖、優しい心、そして顔を持って、ここに一堂に会していることに気づいたのです。なんという顔ぶれでしょう!この市場の広場には、仕事と喜び、買い物と売り物の儀式、買い手が購入したものを使う時に決して忘れることのない売り手の機知に富んだおしゃべりなど、すべてがありました」と、写真集の解説には彼の驚きが記され、さらに「実際、未来の写真作品の登場人物となるかもしれない人々の観察を始めると、市場を訪れるたびに、以前に彼らに会ったことがあるという確信が強まっていきました。(略)彼が誰か分かりました。私の亡き祖父の化身だったのです」と述べられていて、彼自身も、田舎市場の人々を、夏休みに一緒に過ごした祖父母の生まれ変わりのように感じていたことが伺える。写真集のタイトルに「私」が使われているのも、彼が「リトアニア人のあなたと私」という二人称構造のドキュメンタリーを意識していたためと考えている。二人称リアリズムの世界観は独特な写真的実在を作り出し、市場の人々が描く動線と躍動感は生々しい舞台作品を見ているようだ。土門のヒロシマが「医者(私)と患者」、マツィヤウスカスの田舎市場は「私と田舎市場の人々(祖父)」で、どちらも二人称リアリズムの構造を持っていたのだ。

アレクサンドラス・マツィヤウスカスシリーズ「農村市場」より


マツィヤウスカスの田舎市場の写真には、人間の人生と動物の生死が同居してることも書いておきたい。そこには、人間を含めた「はかないもの」への感受性が見て取れるし、もののあわれにつながる情景が写されている。土門と同じく、これらの写真群は普遍的な人間の経験である無常と美しさを表していたのだ。バルト諸国の写真家の作品は、圧政と闘争、そして、独立と変革の時代へと、彼らの不屈の歴史と精神を物語り、土門の作品も戦後日本の重要な歴史資料であり、日本人とは何であるのか、そして、人間とは何であるのかを現在も私たちに問い続けている。出会うことがなかった二人の間にある写真という強い繋がりに敬意を表して、この文章をひとまずは終わりにしたい。






シンヤB

写真家、アーティスト、教育者、ドラマトゥルク。東京都世田谷区生まれ。アメリカの美術大学大学院を卒業。テンプル大学のジャパンキャンパスにアート学科を立ち上げ、現在も教壇に立つ。個展に「Things I see, Do Away」 (Gallery Art Space、1999年)「Afterwords, Me」 (現代ハイツ、2013年)「作例 -- よくある質問と消えていく写真の言葉 」(Place M、2022年)などがある。舞踏作品「不知(don’t know)」の演出を手がけ、軽井沢フォトフェスト、RICOH THETA 公式写真展の審査員を務める。京都のPURPLEや日本の大学で「写真は可能か」と題したレクチャーを開催している。

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