リトアニアにおける写真による二重話法への招待

アグネ・ナルシンテ

メイン・キュレーター、芸術批評家(リトアニア)

今回は、アルゲルダス・シャシュコスが開いたドアから、リトアニアにおける写真の世界に入ってゆきましょう。彼の一見何気ないスナップ写真のほとんどは、長い間公表されることはありませんでした。それは、ヒューマニスト:人間中心主義的な写真、のコンセプトである【ひとのための写真】:日常生活を営む人々への思いやりに満ちた描写というものに、彼の写真がそぐわなかったからです。シャシュコスが撮影したものは、あまりにも曖昧でした。彼は1975年から1985年まで、リトアニアの国営テレビでカメラマンとして働いています。そして、カメラをどこにでも持ち歩き、それを取り出しては、空いた時間を使って人々を撮影していました。スタジオに入る順番を廊下で待つ人、撮影の準備をする人、ステージでパフォーマンスするダンサーや歌手を撮影するカメラマン、演説をする政治家などです。カメラマンという立場が、あたかも2つの視点から現実を同時に見るかのような機会を彼に与えたのでした。

かたや、シャシュコスは、他人が構成したシーン:すべてが適切な位置にあり、ジェスチャーや動きのひとつひとつが監督によって調整された場面、を撮影し、放送しなければなりませんでした。テレビはソ連占領下で厳しく管理されたプロパガンダ手段だったことを忘れてはなりません。イデオロギー的に不適切なメッセージ、シンボル、ストーリーを国民に見せないようにするため、すべての撮影内容は特別委員会によってチェックされ、許可してもらわなくてはなりませんでした。テレビが放送できるのは、人々が党に導かれ共産主義に向かって熱狂的に行進しているというオルタナティブな現実だけでした。すべてが計画通りに進んでおり、収穫は豊かで、産業や文化は繁栄しているという代替現実を市民に信じ込ませるためには、多大な努力が必要だったのです。人々は食料品店の棚は空っぽで、食べられるものを手に入れるためには何時間も並ばなければならないことを知っていましたし、すべての新品の機械は、買っても動かず、修理しなければならないことも知っていました。そして、文化には自由がないことも。文化はテレビのように当局によって管理されており、テレビと同様に「有害な」モダニズム思想を広めたり、宗教、セックス、貧困といったソ連生活の「存在しない」側面を見せることは許されなかったのです。

一方で、シャシュコスが撮影する際にどのようにイメージを構成していたかは誰も見ていなかったため、彼はそれらの「正しい」シーンの意味を変えてしまいました。まず、彼の写真に写る人々は、テレビで見るよりも遠くにいるように感じられます。そして、スタジオの灰色の空間はより大きく、より圧迫的になっており、まるで出演者を閉じ込められている檻のように見えるのです。ステージ上では、出演者の存在はあまり重要ではなく、登場は偶発的にさえ見えます。彼らは別に、この国の誰もが目にするような重要なことをしているのではなく、ただこの空虚な時間を終わらせるために何かが起こるのを待っているように見えます。彼の写真もまた、さまざまな解釈が可能です。私たちの生活をいとも簡単に無関係なもので満たす、そんなテレビのきらめくスペクタクルから距離を置いてみた時。娯楽や雑事に惑わされることなく、私たちが静謐な状態でいる、そんな時にのみ姿を現す、存在というものの真実。ここに、この真実についてのシャシュコスの考察を見ることができます。しかし、これらの写真を、テレビが作り出さなければならなかったプロパガンダという幻想の裂け目であると解釈することも可能です。だからこそ、彼の写真のほとんどは発表されることはありませんでしたし、本展で発表されるソ連占領時代のリトアニアにおける人間中心主義的写真の中で、隠されたカウンター・アーカイブとして残っているのです。今回選ばれた5人の写真家は、現実をまっすぐに撮影しながらも、その隙間や亀裂に入り込み、作品としての真実を探し求めています。病的とも言えるソ連のファサードの裏に隠された真実を。


ロームアルダス・ポルジェルスキスは1974年から2001年まで宗教的な祝祭を撮影していたため、ソ連占領時代の公的な文化を代表する写真家として考えると、最もふさわしくない人物です。当時、宗教をテーマにした芸術は禁止されていました。そのため、彼は教会やその儀式に関連するものを含まない写真だけを展示することができたのです。公式には、このシリーズは『Country Celebrations(地方の祝祭)』と題され、村人たちが楽しんでいる様子を撮影したものでした。その文脈は未だに明らかにはされていません。実際のところ、宗教的な祝祭は夏になると指名された町で数日間にわたって行われ、全国から人々が集まるものでした。政府は多くの教会を閉鎖しており、教会を訪れる姿を見られた者は重要な職を失い、子供たちは学校で神は存在しないと教えられましたが、しかしそれでも宗教は完全に潰されたわけではなく、その習慣は根強く残っていたのです。集団農場で働き、さして重要な地位についていない田舎の人々は、教会の祭りに自由に出かけることができました。彼らは馬車でやってきては、懺悔し、悔い改め、ひれ伏し、キリストの受難の道をたどり、ミサと行列に参加しました。そして、その後には芝生の上にテーブルクロスを広げ、食べ物や飲み物を並べて祝ったのです。離れて暮らす親戚や友人たちは、教会の祭りの時だけ会って、近況を報告し合ったのでした。


ポルジェルスキスは教会の祭りの、ある特殊な側面を好んで撮影しました。彼は人と馬、その関係を観察するのが好きだったのです。また、神聖な木が写るように構図を考えていました。リトアニアは1387年にキリスト教を受け入れたヨーロッパ最後の異教徒であり、自然の精霊が樹木に宿るという信仰が、カトリックの信仰とともに生き続けていたからです。しかし1980年頃、ポルジェルスキスは人々が祭りに馬ではなく、車で訪れるようになったことに気がつきました。彼らの習慣が変わってしまったのです。互いに会ってコミュニケーションをとる代わりに、儀式を終えるとすぐ帰ってしまうようになりました。こうして、この地方の祝祭という伝統は、写真に収めるには面白みのないものとなっていったのでした。

ソ連当局にとってそれほど「危険」ではありませんでしたが、1968年から1980年にかけてアレクサンドラス・マシアウスカスが撮影した田舎の市場もまた、別の裂け目といえます。公的な見解においては、私有財産も私企業も存在しなかったため、市場というものはソ連体制のほころびでした。当初、市場は禁止されていましたが、集団農場が十分な食料を生産できなかったため、当局は都市の片隅で市場が機能することを認めざるをえませんでした。そうこうするうちに、市場は生活になくてはならないものとなりました。なぜなら、人々は市場でなら必要なものを見つけられたからです。商店の棚が空っぽのままであるのに対し、市場では商品が薄められることも、色褪せることもありませんでした。農村の人々は、本物のサワークリーム、本物のバター、本物のミート、本物のチーズ、本物のリンゴなどを持ってきましたし、彼らはまた、動物や鳥のひなも売っていました。彼らは、集団農場で働いて得ているわずかな給料を少しでも増やそうとしたのです。


しかし、マシアウスカスは市場というものの商業的側面には興味がありませんでした。彼は人や物、動物、質感、光と影、そして仕草や表情に焦点を当てたのです。彼は広角レンズが好きで、可能な限り人に近づいて撮影し、時にはその好奇心のために殴られることもありました。「サワークリームの魂」とソ連の美術評論家が彼の写真の一枚を評しましたが、これを見るためにも、対象物に非常に近づいて撮影することを好んだのです。彼は、本物の人間の顔を撮りたかったのでした。善と悪が不安定に共存していることを覆い隠す仮面をつけていない、本物の人間の顔を。マシアウスカスが撮影した田舎の人々は、他の写真家が好んで写した理想化された伝統的なリトアニア人とはかけ離れています。マシアウスカスが撮影した人々は、荒々しく、貪欲で、しばしば動物と比較されるほどです。都市やイデオロギーの規則性とは対照的に、市場を支配する混沌がいかに独自の論理と不規則な幾何学性を含んでいるかを、この写真家は示しています。マシアウスカスは人間の未開の側面に限りなく近づきますが、それに怯えるのではなく、それを笑い飛ばします。村人たちに対してではなく、存在の不条理と、この美しくない存在の儚さに対して。そして、この笑いは腹の底の哀しみからこみあがる笑いなのです。

マシアウスカスが撮影した人々と同じ国の人々であるものの、彼らがバルト海で、アルギマンタス・クンチュスが愛したパランガのバルト海で、くつろぐとき、彼らはまったく違う顔をしています。正反対の存在にさえ見えるのです。クンチュスの義父はパランガに家を持っていたため、彼は1965年から2015年まで、毎年夏に来て海辺を撮影していました。時が経つにつれ、人々がどのように変化していくのか、このリゾートにおいてソ連文化がどのように資本主義的なものへと変貌していくのかがわかります。ただパランガ桟橋だけが、そこで行われる儀式的行為と同じように変わらないのです。この儀式的行為。毎晩、人々は夕陽に別れを告げるために桟橋の端まで歩くのです。海岸から遠く離れ、心配事や現実からも離れ、水と空の間に立つと、その瞬間はとても厳粛に感じられます。ソ連占領下では、この宇宙的な行為は、近寄ることのできない西側への思いを抱かせるものでもありました。太陽が水平線の下に消えていくすぐそこに、西側の国、スウェーデンがあることを、誰もが知っていたからです。

さらに言えば、海辺そのものが、リトアニアの文化においても特別な意味を持っています。リトアニアは昔からバルト海に面していましたが、13世紀にドイツ人十字軍に海岸を占領されてしまいました。長い間、パランガだけがリトアニアの小さな貿易港、漁港として残っていました。首都ヴィリニュスをはじめとする主要都市は、海からも十字軍からも遠く離れた場所に位置していたため、都市部や地方に住む人々は、海辺を自由と平和の空間と捉えていました。一年中働きながら、リトアニア人は海への旅を夢見ており、海に着けば水と砂の無限の広がりに身を委ねるのです。1960年代、クンチュスは違和感のある姿に興味をそそられ、ビーチにいる地方の人々の姿を撮り始めました。まるで教会に来たかのように、彼らは海にいるのに祝日用の一張羅を着ているからです。しかし、そんな彼らも、砂を踏み、水の中に入ると、老人たちは子供たちに変身し、子供たちもまた、祖父母に水をかけたり、砂の城を作ったりしていました。人々が海辺で写真を撮れるようにと、段ボールでできた女神ユラテが海底の琥珀の城から現れてポーズをとっており、クンチュスは、リトアニアの人魚の完璧な身体と、海水浴客の不完全な身体を見比べずにはいられませんでした。


この話は、本展の最後の写真家であるビオレタ・ブベリーテの話につながります。彼女が有名になったのは、1982年に自分の裸を撮り始めてからです。彼女は当初、段ボール、カーテン、布、鏡などで体を半分隠して撮影していました。ソ連占領下では、ヌードを撮影することは半ば禁じられていることでした。一方で、男性写真家は少女たちを撮影会に誘い、自然の中で美しい女性の身体を撮影しました。女性は文化的存在ではなく自然の一部であるという家父長的神話を永続させながら。それらのヌード写真は展示されたり、雑誌に掲載されたりするものの、誰かがそれを糾弾すると、当局がチェックにやってきて、写真家に展示をやめさせたり、そんな写真を掲載した裏切り者の雑誌の編集者をクビにさせたりするのです。こうしたことが起こるのは、裸体を撮影することがポルノと理解されていたからに他なりません。

女性が自分の裸を撮影し始めたという事実は、あらゆるタブーを犯しており、彼女は全方向から非難されました。年配の男性写真家たちは、自分をさらけ出した彼女を馬鹿にし、女性たちは新聞の編集者に、こんな汚い写真を見るのは売春婦だけだと文句の手紙を書いたのです。けれど、ブベリーテはそんなことは気にも留めませんでした。彼女は自分の身体を、アクセスしやすく、自分の望むことを簡単に「指示」できるモデルとして使ったのです。身体をエロティックに撮影するのではなく、彼女はカメラの前で「モノ・スペクタクル(一人芝居)」を演じたのでした。ジェスチャーやサイン、小道具を使って、彼女は絵画の歴史や宗教的真理、あるいは家父長制文化の確実性について物語っていたのです。彼女の身体は、単に生きた彫刻の素材であり、女性の存在を描き記す手段でありました。

もしかするとブベリーテもまた、シャシュコスが撮影した俳優、歌手、ダンサーのように、ソビエトという灰色の独房に閉じ込められた人物として、写真に登場したのかもしれません。実際、5人の写真家はそれぞれ主題と個々の視点を選びとることで、ソ連という体制が課したイデオロギーの枠から精神的に逃れたのでした。彼らの作品は、人間の条件ともいえる内在する曖昧さ、脆弱さ、遊び心について、私たちに何か底深いものを語りかけてきます。

その他のエッセイ :
リトアニアにおける写真による二重話法への招待

アグネ・ナルシンテ

メイン・キュレーター、芸術批評家(リトアニア)

今回は、アルゲルダス・シャシュコスが開いたドアから、リトアニアにおける写真の世界に入ってゆきましょう。彼の一見何気ないスナップ写真のほとんどは、長い間公表されることはありませんでした。それは、ヒューマニスト:人間中心主義的な写真、のコンセプトである【ひとのための写真】:日常生活を営む人々への思いやりに満ちた描写というものに、彼の写真がそぐわなかったからです。シャシュコスが撮影したものは、あまりにも曖昧でした。彼は1975年から1985年まで、リトアニアの国営テレビでカメラマンとして働いています。そして、カメラをどこにでも持ち歩き、それを取り出しては、空いた時間を使って人々を撮影していました。スタジオに入る順番を廊下で待つ人、撮影の準備をする人、ステージでパフォーマンスするダンサーや歌手を撮影するカメラマン、演説をする政治家などです。カメラマンという立場が、あたかも2つの視点から現実を同時に見るかのような機会を彼に与えたのでした。

かたや、シャシュコスは、他人が構成したシーン:すべてが適切な位置にあり、ジェスチャーや動きのひとつひとつが監督によって調整された場面、を撮影し、放送しなければなりませんでした。テレビはソ連占領下で厳しく管理されたプロパガンダ手段だったことを忘れてはなりません。イデオロギー的に不適切なメッセージ、シンボル、ストーリーを国民に見せないようにするため、すべての撮影内容は特別委員会によってチェックされ、許可してもらわなくてはなりませんでした。テレビが放送できるのは、人々が党に導かれ共産主義に向かって熱狂的に行進しているというオルタナティブな現実だけでした。すべてが計画通りに進んでおり、収穫は豊かで、産業や文化は繁栄しているという代替現実を市民に信じ込ませるためには、多大な努力が必要だったのです。人々は食料品店の棚は空っぽで、食べられるものを手に入れるためには何時間も並ばなければならないことを知っていましたし、すべての新品の機械は、買っても動かず、修理しなければならないことも知っていました。そして、文化には自由がないことも。文化はテレビのように当局によって管理されており、テレビと同様に「有害な」モダニズム思想を広めたり、宗教、セックス、貧困といったソ連生活の「存在しない」側面を見せることは許されなかったのです。

一方で、シャシュコスが撮影する際にどのようにイメージを構成していたかは誰も見ていなかったため、彼はそれらの「正しい」シーンの意味を変えてしまいました。まず、彼の写真に写る人々は、テレビで見るよりも遠くにいるように感じられます。そして、スタジオの灰色の空間はより大きく、より圧迫的になっており、まるで出演者を閉じ込められている檻のように見えるのです。ステージ上では、出演者の存在はあまり重要ではなく、登場は偶発的にさえ見えます。彼らは別に、この国の誰もが目にするような重要なことをしているのではなく、ただこの空虚な時間を終わらせるために何かが起こるのを待っているように見えます。彼の写真もまた、さまざまな解釈が可能です。私たちの生活をいとも簡単に無関係なもので満たす、そんなテレビのきらめくスペクタクルから距離を置いてみた時。娯楽や雑事に惑わされることなく、私たちが静謐な状態でいる、そんな時にのみ姿を現す、存在というものの真実。ここに、この真実についてのシャシュコスの考察を見ることができます。しかし、これらの写真を、テレビが作り出さなければならなかったプロパガンダという幻想の裂け目であると解釈することも可能です。だからこそ、彼の写真のほとんどは発表されることはありませんでしたし、本展で発表されるソ連占領時代のリトアニアにおける人間中心主義的写真の中で、隠されたカウンター・アーカイブとして残っているのです。今回選ばれた5人の写真家は、現実をまっすぐに撮影しながらも、その隙間や亀裂に入り込み、作品としての真実を探し求めています。病的とも言えるソ連のファサードの裏に隠された真実を。


ロームアルダス・ポルジェルスキスは1974年から2001年まで宗教的な祝祭を撮影していたため、ソ連占領時代の公的な文化を代表する写真家として考えると、最もふさわしくない人物です。当時、宗教をテーマにした芸術は禁止されていました。そのため、彼は教会やその儀式に関連するものを含まない写真だけを展示することができたのです。公式には、このシリーズは『Country Celebrations(地方の祝祭)』と題され、村人たちが楽しんでいる様子を撮影したものでした。その文脈は未だに明らかにはされていません。実際のところ、宗教的な祝祭は夏になると指名された町で数日間にわたって行われ、全国から人々が集まるものでした。政府は多くの教会を閉鎖しており、教会を訪れる姿を見られた者は重要な職を失い、子供たちは学校で神は存在しないと教えられましたが、しかしそれでも宗教は完全に潰されたわけではなく、その習慣は根強く残っていたのです。集団農場で働き、さして重要な地位についていない田舎の人々は、教会の祭りに自由に出かけることができました。彼らは馬車でやってきては、懺悔し、悔い改め、ひれ伏し、キリストの受難の道をたどり、ミサと行列に参加しました。そして、その後には芝生の上にテーブルクロスを広げ、食べ物や飲み物を並べて祝ったのです。離れて暮らす親戚や友人たちは、教会の祭りの時だけ会って、近況を報告し合ったのでした。


ポルジェルスキスは教会の祭りの、ある特殊な側面を好んで撮影しました。彼は人と馬、その関係を観察するのが好きだったのです。また、神聖な木が写るように構図を考えていました。リトアニアは1387年にキリスト教を受け入れたヨーロッパ最後の異教徒であり、自然の精霊が樹木に宿るという信仰が、カトリックの信仰とともに生き続けていたからです。しかし1980年頃、ポルジェルスキスは人々が祭りに馬ではなく、車で訪れるようになったことに気がつきました。彼らの習慣が変わってしまったのです。互いに会ってコミュニケーションをとる代わりに、儀式を終えるとすぐ帰ってしまうようになりました。こうして、この地方の祝祭という伝統は、写真に収めるには面白みのないものとなっていったのでした。

ソ連当局にとってそれほど「危険」ではありませんでしたが、1968年から1980年にかけてアレクサンドラス・マシアウスカスが撮影した田舎の市場もまた、別の裂け目といえます。公的な見解においては、私有財産も私企業も存在しなかったため、市場というものはソ連体制のほころびでした。当初、市場は禁止されていましたが、集団農場が十分な食料を生産できなかったため、当局は都市の片隅で市場が機能することを認めざるをえませんでした。そうこうするうちに、市場は生活になくてはならないものとなりました。なぜなら、人々は市場でなら必要なものを見つけられたからです。商店の棚が空っぽのままであるのに対し、市場では商品が薄められることも、色褪せることもありませんでした。農村の人々は、本物のサワークリーム、本物のバター、本物のミート、本物のチーズ、本物のリンゴなどを持ってきましたし、彼らはまた、動物や鳥のひなも売っていました。彼らは、集団農場で働いて得ているわずかな給料を少しでも増やそうとしたのです。


しかし、マシアウスカスは市場というものの商業的側面には興味がありませんでした。彼は人や物、動物、質感、光と影、そして仕草や表情に焦点を当てたのです。彼は広角レンズが好きで、可能な限り人に近づいて撮影し、時にはその好奇心のために殴られることもありました。「サワークリームの魂」とソ連の美術評論家が彼の写真の一枚を評しましたが、これを見るためにも、対象物に非常に近づいて撮影することを好んだのです。彼は、本物の人間の顔を撮りたかったのでした。善と悪が不安定に共存していることを覆い隠す仮面をつけていない、本物の人間の顔を。マシアウスカスが撮影した田舎の人々は、他の写真家が好んで写した理想化された伝統的なリトアニア人とはかけ離れています。マシアウスカスが撮影した人々は、荒々しく、貪欲で、しばしば動物と比較されるほどです。都市やイデオロギーの規則性とは対照的に、市場を支配する混沌がいかに独自の論理と不規則な幾何学性を含んでいるかを、この写真家は示しています。マシアウスカスは人間の未開の側面に限りなく近づきますが、それに怯えるのではなく、それを笑い飛ばします。村人たちに対してではなく、存在の不条理と、この美しくない存在の儚さに対して。そして、この笑いは腹の底の哀しみからこみあがる笑いなのです。

マシアウスカスが撮影した人々と同じ国の人々であるものの、彼らがバルト海で、アルギマンタス・クンチュスが愛したパランガのバルト海で、くつろぐとき、彼らはまったく違う顔をしています。正反対の存在にさえ見えるのです。クンチュスの義父はパランガに家を持っていたため、彼は1965年から2015年まで、毎年夏に来て海辺を撮影していました。時が経つにつれ、人々がどのように変化していくのか、このリゾートにおいてソ連文化がどのように資本主義的なものへと変貌していくのかがわかります。ただパランガ桟橋だけが、そこで行われる儀式的行為と同じように変わらないのです。この儀式的行為。毎晩、人々は夕陽に別れを告げるために桟橋の端まで歩くのです。海岸から遠く離れ、心配事や現実からも離れ、水と空の間に立つと、その瞬間はとても厳粛に感じられます。ソ連占領下では、この宇宙的な行為は、近寄ることのできない西側への思いを抱かせるものでもありました。太陽が水平線の下に消えていくすぐそこに、西側の国、スウェーデンがあることを、誰もが知っていたからです。

さらに言えば、海辺そのものが、リトアニアの文化においても特別な意味を持っています。リトアニアは昔からバルト海に面していましたが、13世紀にドイツ人十字軍に海岸を占領されてしまいました。長い間、パランガだけがリトアニアの小さな貿易港、漁港として残っていました。首都ヴィリニュスをはじめとする主要都市は、海からも十字軍からも遠く離れた場所に位置していたため、都市部や地方に住む人々は、海辺を自由と平和の空間と捉えていました。一年中働きながら、リトアニア人は海への旅を夢見ており、海に着けば水と砂の無限の広がりに身を委ねるのです。1960年代、クンチュスは違和感のある姿に興味をそそられ、ビーチにいる地方の人々の姿を撮り始めました。まるで教会に来たかのように、彼らは海にいるのに祝日用の一張羅を着ているからです。しかし、そんな彼らも、砂を踏み、水の中に入ると、老人たちは子供たちに変身し、子供たちもまた、祖父母に水をかけたり、砂の城を作ったりしていました。人々が海辺で写真を撮れるようにと、段ボールでできた女神ユラテが海底の琥珀の城から現れてポーズをとっており、クンチュスは、リトアニアの人魚の完璧な身体と、海水浴客の不完全な身体を見比べずにはいられませんでした。


この話は、本展の最後の写真家であるビオレタ・ブベリーテの話につながります。彼女が有名になったのは、1982年に自分の裸を撮り始めてからです。彼女は当初、段ボール、カーテン、布、鏡などで体を半分隠して撮影していました。ソ連占領下では、ヌードを撮影することは半ば禁じられていることでした。一方で、男性写真家は少女たちを撮影会に誘い、自然の中で美しい女性の身体を撮影しました。女性は文化的存在ではなく自然の一部であるという家父長的神話を永続させながら。それらのヌード写真は展示されたり、雑誌に掲載されたりするものの、誰かがそれを糾弾すると、当局がチェックにやってきて、写真家に展示をやめさせたり、そんな写真を掲載した裏切り者の雑誌の編集者をクビにさせたりするのです。こうしたことが起こるのは、裸体を撮影することがポルノと理解されていたからに他なりません。

女性が自分の裸を撮影し始めたという事実は、あらゆるタブーを犯しており、彼女は全方向から非難されました。年配の男性写真家たちは、自分をさらけ出した彼女を馬鹿にし、女性たちは新聞の編集者に、こんな汚い写真を見るのは売春婦だけだと文句の手紙を書いたのです。けれど、ブベリーテはそんなことは気にも留めませんでした。彼女は自分の身体を、アクセスしやすく、自分の望むことを簡単に「指示」できるモデルとして使ったのです。身体をエロティックに撮影するのではなく、彼女はカメラの前で「モノ・スペクタクル(一人芝居)」を演じたのでした。ジェスチャーやサイン、小道具を使って、彼女は絵画の歴史や宗教的真理、あるいは家父長制文化の確実性について物語っていたのです。彼女の身体は、単に生きた彫刻の素材であり、女性の存在を描き記す手段でありました。

もしかするとブベリーテもまた、シャシュコスが撮影した俳優、歌手、ダンサーのように、ソビエトという灰色の独房に閉じ込められた人物として、写真に登場したのかもしれません。実際、5人の写真家はそれぞれ主題と個々の視点を選びとることで、ソ連という体制が課したイデオロギーの枠から精神的に逃れたのでした。彼らの作品は、人間の条件ともいえる内在する曖昧さ、脆弱さ、遊び心について、私たちに何か底深いものを語りかけてきます。

その他のエッセイ :
リトアニアにおける写真による二重話法への招待

アグネ・ナルシンテ

メイン・キュレーター、芸術批評家(リトアニア)

今回は、アルゲルダス・シャシュコスが開いたドアから、リトアニアにおける写真の世界に入ってゆきましょう。彼の一見何気ないスナップ写真のほとんどは、長い間公表されることはありませんでした。それは、ヒューマニスト:人間中心主義的な写真、のコンセプトである【ひとのための写真】:日常生活を営む人々への思いやりに満ちた描写というものに、彼の写真がそぐわなかったからです。シャシュコスが撮影したものは、あまりにも曖昧でした。彼は1975年から1985年まで、リトアニアの国営テレビでカメラマンとして働いています。そして、カメラをどこにでも持ち歩き、それを取り出しては、空いた時間を使って人々を撮影していました。スタジオに入る順番を廊下で待つ人、撮影の準備をする人、ステージでパフォーマンスするダンサーや歌手を撮影するカメラマン、演説をする政治家などです。カメラマンという立場が、あたかも2つの視点から現実を同時に見るかのような機会を彼に与えたのでした。

かたや、シャシュコスは、他人が構成したシーン:すべてが適切な位置にあり、ジェスチャーや動きのひとつひとつが監督によって調整された場面、を撮影し、放送しなければなりませんでした。テレビはソ連占領下で厳しく管理されたプロパガンダ手段だったことを忘れてはなりません。イデオロギー的に不適切なメッセージ、シンボル、ストーリーを国民に見せないようにするため、すべての撮影内容は特別委員会によってチェックされ、許可してもらわなくてはなりませんでした。テレビが放送できるのは、人々が党に導かれ共産主義に向かって熱狂的に行進しているというオルタナティブな現実だけでした。すべてが計画通りに進んでおり、収穫は豊かで、産業や文化は繁栄しているという代替現実を市民に信じ込ませるためには、多大な努力が必要だったのです。人々は食料品店の棚は空っぽで、食べられるものを手に入れるためには何時間も並ばなければならないことを知っていましたし、すべての新品の機械は、買っても動かず、修理しなければならないことも知っていました。そして、文化には自由がないことも。文化はテレビのように当局によって管理されており、テレビと同様に「有害な」モダニズム思想を広めたり、宗教、セックス、貧困といったソ連生活の「存在しない」側面を見せることは許されなかったのです。

一方で、シャシュコスが撮影する際にどのようにイメージを構成していたかは誰も見ていなかったため、彼はそれらの「正しい」シーンの意味を変えてしまいました。まず、彼の写真に写る人々は、テレビで見るよりも遠くにいるように感じられます。そして、スタジオの灰色の空間はより大きく、より圧迫的になっており、まるで出演者を閉じ込められている檻のように見えるのです。ステージ上では、出演者の存在はあまり重要ではなく、登場は偶発的にさえ見えます。彼らは別に、この国の誰もが目にするような重要なことをしているのではなく、ただこの空虚な時間を終わらせるために何かが起こるのを待っているように見えます。彼の写真もまた、さまざまな解釈が可能です。私たちの生活をいとも簡単に無関係なもので満たす、そんなテレビのきらめくスペクタクルから距離を置いてみた時。娯楽や雑事に惑わされることなく、私たちが静謐な状態でいる、そんな時にのみ姿を現す、存在というものの真実。ここに、この真実についてのシャシュコスの考察を見ることができます。しかし、これらの写真を、テレビが作り出さなければならなかったプロパガンダという幻想の裂け目であると解釈することも可能です。だからこそ、彼の写真のほとんどは発表されることはありませんでしたし、本展で発表されるソ連占領時代のリトアニアにおける人間中心主義的写真の中で、隠されたカウンター・アーカイブとして残っているのです。今回選ばれた5人の写真家は、現実をまっすぐに撮影しながらも、その隙間や亀裂に入り込み、作品としての真実を探し求めています。病的とも言えるソ連のファサードの裏に隠された真実を。


ロームアルダス・ポルジェルスキスは1974年から2001年まで宗教的な祝祭を撮影していたため、ソ連占領時代の公的な文化を代表する写真家として考えると、最もふさわしくない人物です。当時、宗教をテーマにした芸術は禁止されていました。そのため、彼は教会やその儀式に関連するものを含まない写真だけを展示することができたのです。公式には、このシリーズは『Country Celebrations(地方の祝祭)』と題され、村人たちが楽しんでいる様子を撮影したものでした。その文脈は未だに明らかにはされていません。実際のところ、宗教的な祝祭は夏になると指名された町で数日間にわたって行われ、全国から人々が集まるものでした。政府は多くの教会を閉鎖しており、教会を訪れる姿を見られた者は重要な職を失い、子供たちは学校で神は存在しないと教えられましたが、しかしそれでも宗教は完全に潰されたわけではなく、その習慣は根強く残っていたのです。集団農場で働き、さして重要な地位についていない田舎の人々は、教会の祭りに自由に出かけることができました。彼らは馬車でやってきては、懺悔し、悔い改め、ひれ伏し、キリストの受難の道をたどり、ミサと行列に参加しました。そして、その後には芝生の上にテーブルクロスを広げ、食べ物や飲み物を並べて祝ったのです。離れて暮らす親戚や友人たちは、教会の祭りの時だけ会って、近況を報告し合ったのでした。


ポルジェルスキスは教会の祭りの、ある特殊な側面を好んで撮影しました。彼は人と馬、その関係を観察するのが好きだったのです。また、神聖な木が写るように構図を考えていました。リトアニアは1387年にキリスト教を受け入れたヨーロッパ最後の異教徒であり、自然の精霊が樹木に宿るという信仰が、カトリックの信仰とともに生き続けていたからです。しかし1980年頃、ポルジェルスキスは人々が祭りに馬ではなく、車で訪れるようになったことに気がつきました。彼らの習慣が変わってしまったのです。互いに会ってコミュニケーションをとる代わりに、儀式を終えるとすぐ帰ってしまうようになりました。こうして、この地方の祝祭という伝統は、写真に収めるには面白みのないものとなっていったのでした。

ソ連当局にとってそれほど「危険」ではありませんでしたが、1968年から1980年にかけてアレクサンドラス・マシアウスカスが撮影した田舎の市場もまた、別の裂け目といえます。公的な見解においては、私有財産も私企業も存在しなかったため、市場というものはソ連体制のほころびでした。当初、市場は禁止されていましたが、集団農場が十分な食料を生産できなかったため、当局は都市の片隅で市場が機能することを認めざるをえませんでした。そうこうするうちに、市場は生活になくてはならないものとなりました。なぜなら、人々は市場でなら必要なものを見つけられたからです。商店の棚が空っぽのままであるのに対し、市場では商品が薄められることも、色褪せることもありませんでした。農村の人々は、本物のサワークリーム、本物のバター、本物のミート、本物のチーズ、本物のリンゴなどを持ってきましたし、彼らはまた、動物や鳥のひなも売っていました。彼らは、集団農場で働いて得ているわずかな給料を少しでも増やそうとしたのです。


しかし、マシアウスカスは市場というものの商業的側面には興味がありませんでした。彼は人や物、動物、質感、光と影、そして仕草や表情に焦点を当てたのです。彼は広角レンズが好きで、可能な限り人に近づいて撮影し、時にはその好奇心のために殴られることもありました。「サワークリームの魂」とソ連の美術評論家が彼の写真の一枚を評しましたが、これを見るためにも、対象物に非常に近づいて撮影することを好んだのです。彼は、本物の人間の顔を撮りたかったのでした。善と悪が不安定に共存していることを覆い隠す仮面をつけていない、本物の人間の顔を。マシアウスカスが撮影した田舎の人々は、他の写真家が好んで写した理想化された伝統的なリトアニア人とはかけ離れています。マシアウスカスが撮影した人々は、荒々しく、貪欲で、しばしば動物と比較されるほどです。都市やイデオロギーの規則性とは対照的に、市場を支配する混沌がいかに独自の論理と不規則な幾何学性を含んでいるかを、この写真家は示しています。マシアウスカスは人間の未開の側面に限りなく近づきますが、それに怯えるのではなく、それを笑い飛ばします。村人たちに対してではなく、存在の不条理と、この美しくない存在の儚さに対して。そして、この笑いは腹の底の哀しみからこみあがる笑いなのです。

マシアウスカスが撮影した人々と同じ国の人々であるものの、彼らがバルト海で、アルギマンタス・クンチュスが愛したパランガのバルト海で、くつろぐとき、彼らはまったく違う顔をしています。正反対の存在にさえ見えるのです。クンチュスの義父はパランガに家を持っていたため、彼は1965年から2015年まで、毎年夏に来て海辺を撮影していました。時が経つにつれ、人々がどのように変化していくのか、このリゾートにおいてソ連文化がどのように資本主義的なものへと変貌していくのかがわかります。ただパランガ桟橋だけが、そこで行われる儀式的行為と同じように変わらないのです。この儀式的行為。毎晩、人々は夕陽に別れを告げるために桟橋の端まで歩くのです。海岸から遠く離れ、心配事や現実からも離れ、水と空の間に立つと、その瞬間はとても厳粛に感じられます。ソ連占領下では、この宇宙的な行為は、近寄ることのできない西側への思いを抱かせるものでもありました。太陽が水平線の下に消えていくすぐそこに、西側の国、スウェーデンがあることを、誰もが知っていたからです。

さらに言えば、海辺そのものが、リトアニアの文化においても特別な意味を持っています。リトアニアは昔からバルト海に面していましたが、13世紀にドイツ人十字軍に海岸を占領されてしまいました。長い間、パランガだけがリトアニアの小さな貿易港、漁港として残っていました。首都ヴィリニュスをはじめとする主要都市は、海からも十字軍からも遠く離れた場所に位置していたため、都市部や地方に住む人々は、海辺を自由と平和の空間と捉えていました。一年中働きながら、リトアニア人は海への旅を夢見ており、海に着けば水と砂の無限の広がりに身を委ねるのです。1960年代、クンチュスは違和感のある姿に興味をそそられ、ビーチにいる地方の人々の姿を撮り始めました。まるで教会に来たかのように、彼らは海にいるのに祝日用の一張羅を着ているからです。しかし、そんな彼らも、砂を踏み、水の中に入ると、老人たちは子供たちに変身し、子供たちもまた、祖父母に水をかけたり、砂の城を作ったりしていました。人々が海辺で写真を撮れるようにと、段ボールでできた女神ユラテが海底の琥珀の城から現れてポーズをとっており、クンチュスは、リトアニアの人魚の完璧な身体と、海水浴客の不完全な身体を見比べずにはいられませんでした。


この話は、本展の最後の写真家であるビオレタ・ブベリーテの話につながります。彼女が有名になったのは、1982年に自分の裸を撮り始めてからです。彼女は当初、段ボール、カーテン、布、鏡などで体を半分隠して撮影していました。ソ連占領下では、ヌードを撮影することは半ば禁じられていることでした。一方で、男性写真家は少女たちを撮影会に誘い、自然の中で美しい女性の身体を撮影しました。女性は文化的存在ではなく自然の一部であるという家父長的神話を永続させながら。それらのヌード写真は展示されたり、雑誌に掲載されたりするものの、誰かがそれを糾弾すると、当局がチェックにやってきて、写真家に展示をやめさせたり、そんな写真を掲載した裏切り者の雑誌の編集者をクビにさせたりするのです。こうしたことが起こるのは、裸体を撮影することがポルノと理解されていたからに他なりません。

女性が自分の裸を撮影し始めたという事実は、あらゆるタブーを犯しており、彼女は全方向から非難されました。年配の男性写真家たちは、自分をさらけ出した彼女を馬鹿にし、女性たちは新聞の編集者に、こんな汚い写真を見るのは売春婦だけだと文句の手紙を書いたのです。けれど、ブベリーテはそんなことは気にも留めませんでした。彼女は自分の身体を、アクセスしやすく、自分の望むことを簡単に「指示」できるモデルとして使ったのです。身体をエロティックに撮影するのではなく、彼女はカメラの前で「モノ・スペクタクル(一人芝居)」を演じたのでした。ジェスチャーやサイン、小道具を使って、彼女は絵画の歴史や宗教的真理、あるいは家父長制文化の確実性について物語っていたのです。彼女の身体は、単に生きた彫刻の素材であり、女性の存在を描き記す手段でありました。

もしかするとブベリーテもまた、シャシュコスが撮影した俳優、歌手、ダンサーのように、ソビエトという灰色の独房に閉じ込められた人物として、写真に登場したのかもしれません。実際、5人の写真家はそれぞれ主題と個々の視点を選びとることで、ソ連という体制が課したイデオロギーの枠から精神的に逃れたのでした。彼らの作品は、人間の条件ともいえる内在する曖昧さ、脆弱さ、遊び心について、私たちに何か底深いものを語りかけてきます。

その他のエッセイ :
リトアニアにおける写真による二重話法への招待

アグネ・ナルシンテ

メイン・キュレーター、芸術批評家(リトアニア)

今回は、アルゲルダス・シャシュコスが開いたドアから、リトアニアにおける写真の世界に入ってゆきましょう。彼の一見何気ないスナップ写真のほとんどは、長い間公表されることはありませんでした。それは、ヒューマニスト:人間中心主義的な写真、のコンセプトである【ひとのための写真】:日常生活を営む人々への思いやりに満ちた描写というものに、彼の写真がそぐわなかったからです。シャシュコスが撮影したものは、あまりにも曖昧でした。彼は1975年から1985年まで、リトアニアの国営テレビでカメラマンとして働いています。そして、カメラをどこにでも持ち歩き、それを取り出しては、空いた時間を使って人々を撮影していました。スタジオに入る順番を廊下で待つ人、撮影の準備をする人、ステージでパフォーマンスするダンサーや歌手を撮影するカメラマン、演説をする政治家などです。カメラマンという立場が、あたかも2つの視点から現実を同時に見るかのような機会を彼に与えたのでした。

かたや、シャシュコスは、他人が構成したシーン:すべてが適切な位置にあり、ジェスチャーや動きのひとつひとつが監督によって調整された場面、を撮影し、放送しなければなりませんでした。テレビはソ連占領下で厳しく管理されたプロパガンダ手段だったことを忘れてはなりません。イデオロギー的に不適切なメッセージ、シンボル、ストーリーを国民に見せないようにするため、すべての撮影内容は特別委員会によってチェックされ、許可してもらわなくてはなりませんでした。テレビが放送できるのは、人々が党に導かれ共産主義に向かって熱狂的に行進しているというオルタナティブな現実だけでした。すべてが計画通りに進んでおり、収穫は豊かで、産業や文化は繁栄しているという代替現実を市民に信じ込ませるためには、多大な努力が必要だったのです。人々は食料品店の棚は空っぽで、食べられるものを手に入れるためには何時間も並ばなければならないことを知っていましたし、すべての新品の機械は、買っても動かず、修理しなければならないことも知っていました。そして、文化には自由がないことも。文化はテレビのように当局によって管理されており、テレビと同様に「有害な」モダニズム思想を広めたり、宗教、セックス、貧困といったソ連生活の「存在しない」側面を見せることは許されなかったのです。

一方で、シャシュコスが撮影する際にどのようにイメージを構成していたかは誰も見ていなかったため、彼はそれらの「正しい」シーンの意味を変えてしまいました。まず、彼の写真に写る人々は、テレビで見るよりも遠くにいるように感じられます。そして、スタジオの灰色の空間はより大きく、より圧迫的になっており、まるで出演者を閉じ込められている檻のように見えるのです。ステージ上では、出演者の存在はあまり重要ではなく、登場は偶発的にさえ見えます。彼らは別に、この国の誰もが目にするような重要なことをしているのではなく、ただこの空虚な時間を終わらせるために何かが起こるのを待っているように見えます。彼の写真もまた、さまざまな解釈が可能です。私たちの生活をいとも簡単に無関係なもので満たす、そんなテレビのきらめくスペクタクルから距離を置いてみた時。娯楽や雑事に惑わされることなく、私たちが静謐な状態でいる、そんな時にのみ姿を現す、存在というものの真実。ここに、この真実についてのシャシュコスの考察を見ることができます。しかし、これらの写真を、テレビが作り出さなければならなかったプロパガンダという幻想の裂け目であると解釈することも可能です。だからこそ、彼の写真のほとんどは発表されることはありませんでしたし、本展で発表されるソ連占領時代のリトアニアにおける人間中心主義的写真の中で、隠されたカウンター・アーカイブとして残っているのです。今回選ばれた5人の写真家は、現実をまっすぐに撮影しながらも、その隙間や亀裂に入り込み、作品としての真実を探し求めています。病的とも言えるソ連のファサードの裏に隠された真実を。


ロームアルダス・ポルジェルスキスは1974年から2001年まで宗教的な祝祭を撮影していたため、ソ連占領時代の公的な文化を代表する写真家として考えると、最もふさわしくない人物です。当時、宗教をテーマにした芸術は禁止されていました。そのため、彼は教会やその儀式に関連するものを含まない写真だけを展示することができたのです。公式には、このシリーズは『Country Celebrations(地方の祝祭)』と題され、村人たちが楽しんでいる様子を撮影したものでした。その文脈は未だに明らかにはされていません。実際のところ、宗教的な祝祭は夏になると指名された町で数日間にわたって行われ、全国から人々が集まるものでした。政府は多くの教会を閉鎖しており、教会を訪れる姿を見られた者は重要な職を失い、子供たちは学校で神は存在しないと教えられましたが、しかしそれでも宗教は完全に潰されたわけではなく、その習慣は根強く残っていたのです。集団農場で働き、さして重要な地位についていない田舎の人々は、教会の祭りに自由に出かけることができました。彼らは馬車でやってきては、懺悔し、悔い改め、ひれ伏し、キリストの受難の道をたどり、ミサと行列に参加しました。そして、その後には芝生の上にテーブルクロスを広げ、食べ物や飲み物を並べて祝ったのです。離れて暮らす親戚や友人たちは、教会の祭りの時だけ会って、近況を報告し合ったのでした。


ポルジェルスキスは教会の祭りの、ある特殊な側面を好んで撮影しました。彼は人と馬、その関係を観察するのが好きだったのです。また、神聖な木が写るように構図を考えていました。リトアニアは1387年にキリスト教を受け入れたヨーロッパ最後の異教徒であり、自然の精霊が樹木に宿るという信仰が、カトリックの信仰とともに生き続けていたからです。しかし1980年頃、ポルジェルスキスは人々が祭りに馬ではなく、車で訪れるようになったことに気がつきました。彼らの習慣が変わってしまったのです。互いに会ってコミュニケーションをとる代わりに、儀式を終えるとすぐ帰ってしまうようになりました。こうして、この地方の祝祭という伝統は、写真に収めるには面白みのないものとなっていったのでした。

ソ連当局にとってそれほど「危険」ではありませんでしたが、1968年から1980年にかけてアレクサンドラス・マシアウスカスが撮影した田舎の市場もまた、別の裂け目といえます。公的な見解においては、私有財産も私企業も存在しなかったため、市場というものはソ連体制のほころびでした。当初、市場は禁止されていましたが、集団農場が十分な食料を生産できなかったため、当局は都市の片隅で市場が機能することを認めざるをえませんでした。そうこうするうちに、市場は生活になくてはならないものとなりました。なぜなら、人々は市場でなら必要なものを見つけられたからです。商店の棚が空っぽのままであるのに対し、市場では商品が薄められることも、色褪せることもありませんでした。農村の人々は、本物のサワークリーム、本物のバター、本物のミート、本物のチーズ、本物のリンゴなどを持ってきましたし、彼らはまた、動物や鳥のひなも売っていました。彼らは、集団農場で働いて得ているわずかな給料を少しでも増やそうとしたのです。


しかし、マシアウスカスは市場というものの商業的側面には興味がありませんでした。彼は人や物、動物、質感、光と影、そして仕草や表情に焦点を当てたのです。彼は広角レンズが好きで、可能な限り人に近づいて撮影し、時にはその好奇心のために殴られることもありました。「サワークリームの魂」とソ連の美術評論家が彼の写真の一枚を評しましたが、これを見るためにも、対象物に非常に近づいて撮影することを好んだのです。彼は、本物の人間の顔を撮りたかったのでした。善と悪が不安定に共存していることを覆い隠す仮面をつけていない、本物の人間の顔を。マシアウスカスが撮影した田舎の人々は、他の写真家が好んで写した理想化された伝統的なリトアニア人とはかけ離れています。マシアウスカスが撮影した人々は、荒々しく、貪欲で、しばしば動物と比較されるほどです。都市やイデオロギーの規則性とは対照的に、市場を支配する混沌がいかに独自の論理と不規則な幾何学性を含んでいるかを、この写真家は示しています。マシアウスカスは人間の未開の側面に限りなく近づきますが、それに怯えるのではなく、それを笑い飛ばします。村人たちに対してではなく、存在の不条理と、この美しくない存在の儚さに対して。そして、この笑いは腹の底の哀しみからこみあがる笑いなのです。

マシアウスカスが撮影した人々と同じ国の人々であるものの、彼らがバルト海で、アルギマンタス・クンチュスが愛したパランガのバルト海で、くつろぐとき、彼らはまったく違う顔をしています。正反対の存在にさえ見えるのです。クンチュスの義父はパランガに家を持っていたため、彼は1965年から2015年まで、毎年夏に来て海辺を撮影していました。時が経つにつれ、人々がどのように変化していくのか、このリゾートにおいてソ連文化がどのように資本主義的なものへと変貌していくのかがわかります。ただパランガ桟橋だけが、そこで行われる儀式的行為と同じように変わらないのです。この儀式的行為。毎晩、人々は夕陽に別れを告げるために桟橋の端まで歩くのです。海岸から遠く離れ、心配事や現実からも離れ、水と空の間に立つと、その瞬間はとても厳粛に感じられます。ソ連占領下では、この宇宙的な行為は、近寄ることのできない西側への思いを抱かせるものでもありました。太陽が水平線の下に消えていくすぐそこに、西側の国、スウェーデンがあることを、誰もが知っていたからです。

さらに言えば、海辺そのものが、リトアニアの文化においても特別な意味を持っています。リトアニアは昔からバルト海に面していましたが、13世紀にドイツ人十字軍に海岸を占領されてしまいました。長い間、パランガだけがリトアニアの小さな貿易港、漁港として残っていました。首都ヴィリニュスをはじめとする主要都市は、海からも十字軍からも遠く離れた場所に位置していたため、都市部や地方に住む人々は、海辺を自由と平和の空間と捉えていました。一年中働きながら、リトアニア人は海への旅を夢見ており、海に着けば水と砂の無限の広がりに身を委ねるのです。1960年代、クンチュスは違和感のある姿に興味をそそられ、ビーチにいる地方の人々の姿を撮り始めました。まるで教会に来たかのように、彼らは海にいるのに祝日用の一張羅を着ているからです。しかし、そんな彼らも、砂を踏み、水の中に入ると、老人たちは子供たちに変身し、子供たちもまた、祖父母に水をかけたり、砂の城を作ったりしていました。人々が海辺で写真を撮れるようにと、段ボールでできた女神ユラテが海底の琥珀の城から現れてポーズをとっており、クンチュスは、リトアニアの人魚の完璧な身体と、海水浴客の不完全な身体を見比べずにはいられませんでした。


この話は、本展の最後の写真家であるビオレタ・ブベリーテの話につながります。彼女が有名になったのは、1982年に自分の裸を撮り始めてからです。彼女は当初、段ボール、カーテン、布、鏡などで体を半分隠して撮影していました。ソ連占領下では、ヌードを撮影することは半ば禁じられていることでした。一方で、男性写真家は少女たちを撮影会に誘い、自然の中で美しい女性の身体を撮影しました。女性は文化的存在ではなく自然の一部であるという家父長的神話を永続させながら。それらのヌード写真は展示されたり、雑誌に掲載されたりするものの、誰かがそれを糾弾すると、当局がチェックにやってきて、写真家に展示をやめさせたり、そんな写真を掲載した裏切り者の雑誌の編集者をクビにさせたりするのです。こうしたことが起こるのは、裸体を撮影することがポルノと理解されていたからに他なりません。

女性が自分の裸を撮影し始めたという事実は、あらゆるタブーを犯しており、彼女は全方向から非難されました。年配の男性写真家たちは、自分をさらけ出した彼女を馬鹿にし、女性たちは新聞の編集者に、こんな汚い写真を見るのは売春婦だけだと文句の手紙を書いたのです。けれど、ブベリーテはそんなことは気にも留めませんでした。彼女は自分の身体を、アクセスしやすく、自分の望むことを簡単に「指示」できるモデルとして使ったのです。身体をエロティックに撮影するのではなく、彼女はカメラの前で「モノ・スペクタクル(一人芝居)」を演じたのでした。ジェスチャーやサイン、小道具を使って、彼女は絵画の歴史や宗教的真理、あるいは家父長制文化の確実性について物語っていたのです。彼女の身体は、単に生きた彫刻の素材であり、女性の存在を描き記す手段でありました。

もしかするとブベリーテもまた、シャシュコスが撮影した俳優、歌手、ダンサーのように、ソビエトという灰色の独房に閉じ込められた人物として、写真に登場したのかもしれません。実際、5人の写真家はそれぞれ主題と個々の視点を選びとることで、ソ連という体制が課したイデオロギーの枠から精神的に逃れたのでした。彼らの作品は、人間の条件ともいえる内在する曖昧さ、脆弱さ、遊び心について、私たちに何か底深いものを語りかけてきます。

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